参考:「日本人への人種差別の経緯」    

               

1)列強による黄禍論の始まり 

 

欧米において18世紀には奴隷制度は当然のこととして存在していた。19世紀に至り、英国では奴隷を商品とする奴隷貿易は1807年に廃止した。そして1833年に奴隷解放令が制定された。

米国では1808年に奴隷貿易が禁止されたが、奴隷制度自体は南北戦争(186165年)が終わるまで憲法で認められていた。その憲法を修正する、憲法修正第13条が1865年に成立して奴隷制の廃止が確定した。 

しかし、その後も黒人は差別され続けた。当時は人種差別というより、白人も黒人も同じ人間という意識は全くなく、基本的な人間としての人権などありもせず、まったくの人間差別であった。1860年のアメリカ合衆国の国勢調査では、奴隷人口は400万人に達していた。

 

白人と黄色人種の人種差別は欧州列強の中で、日清戦争末期の1895年春頃から「黄禍論」として唱えられ始めた。黄色人種の台頭が白人文明ないし白人社会に脅威を与えるという主張であり、アジアに対する欧米諸国の侵略、黄色人種の圧迫を正当化するために用いられた。もちろん人種的に白人の優越性と黄色人種の劣等性という考え方が基にある。

「黄過」は元々海外へ多く移住していた中国人への差別用語であったが、その後黄禍論の対象になったのは近代国家へと邁進していた日本であった。ドイツ帝国ウィルヘルム2世が日清戦争に際して「黄禍」という言葉を用いた。

日清戦争後の三国干渉と同年の1895年秋に、ヴィルヘルム2世は自らが原画を描いた寓意画「ヨーロッパの諸国民よ、汝らの最も神聖な宝を守れ」をロシア帝国の皇帝ニコライ2世に贈呈し、さらにその複製がフランス及び米国の大統領らに配布され、この寓意画のイメージは西洋世界に黄禍論を大いに普及させた。続く日露戦争の日本勝利で欧州全体に黄禍論は広まっていった。    

                         

 

 

寓意画「ヨーロッパの諸国民よ、汝らの最も神聖な宝を守れ」

 当時の ヨーロッパの日本や中国に対する警戒心を端的に表したイラストである。右手の田園で燃え盛る炎の中に仏陀がおり、左手の十字架が頭上に輝く高台には、ブリタニア(イギリス)、ゲルマニア(ドイツ)、マリアンヌ(フランス)などヨーロッパ諸国を擬人化した女神たちの前でキリスト教の大天使ミカエルが戦いを呼び掛けている。

 第1次世界大戦の後の世界では、各国の厭戦気分と新しい平和への機関の必要性から国際連盟が作られた。1919年パリ講和会議の国際連盟委員会に於ける連盟規約作成時に、日本は人種差別撤廃条項を盛り込むよう主張し、「連盟員たる国家に於ける一切の外国人に対し、均等公正の待遇を与え、人種或いは国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」という条文を提案した。しかし、米英の強硬な反対により成立しなかった。日本の提案は人種差別行為が当たり前であった欧米諸国にとってはかなり急進的かつ画期的な内容であったためである。国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初である。

 

   日本人を人種的に低く見る思想は欧米にて多く見られたが、友邦ドイツにおいても同様であった。ヒトラーの「我が闘争」にも日本人侮蔑と受け取れる場所が複数あり、戦前の日本語版においては、こういった箇所が削除されていた。ドイツ語の原著を読んだ海軍省軍務局長の井上成美は「ヒトラーは日本人を想像力の欠如した劣等民族、ただしドイツの手先として使うなら小器用・小利口で役に立つ存在と見ている。彼の偽らざる対日認識はこれであり、ナチスの日本接近の真の理由もそこにあるのだから、ドイツを頼むに足る対等の友邦と信じている向きは三思三省の要あり、自戒を望む」と、当時の海軍省内に通達している。

 

 

2)米国における人種差別と排日運動の経緯

 

 日本において明治以降は人口が急増し、明治初年頃(5年)は約3500万人であったものが、明治41年には約4,800万人となり、1300万人・4割も増加した。この時期には米国への移民がピークを迎えていた。さらに、満州事変の前年、昭和5年には人口が約6500万人へと増え続けた。この人口過剰には海外進出が必要とされ、満州国をつくり国策として開拓民を送り込んだ。終戦までに農民・企業・公的機関を含めて140万人が移り住んでいる。

 

 米国においては移民の大量入国が続き、その中で黄色人種への人種差別が始まっていった。1882年東洋系移民に対する差別法の端緒である中国人排斥法が成立。米国へ入国できなくなった中国人に代わって、日本人移民が増え始めた。

 

1905年 日露戦争終結。有色人種の日本が白人種に初めて勝利したことにより、前からくすぶっていた黄禍論が西洋社会を席巻し、米国・カリフォルニア州で「アジア人排斥同盟」が結成され、積極的な排日運動を展開し始めた。これには、政治的グループ、市民的グループ、軍隊的グループとともに200以上の労働組合がこの連盟に加入していた。日本が大国ロシアに勝利したことで、太平洋における強力なライバルとして出現した結果、米国において、特に太平洋沿岸のカリフォルニア州において「黄禍」が勃興し、日本人移民は次第に脅威とみなされるようになった。

1906年 サンフランシスコ教育委員会が中国人と同様に、日本人と朝鮮人にも学生隔離命令(白人から離し、集中隔離する差別措置)を出した。しかしこれは翌年撤回された。

1907年 サンフランシスコで反日暴動起こる。多くの日本人が殺傷された。日本人移住者が多かった同市とロサンゼルスは排日の拠点となり、さまざまな日系人排斥運動が激化する。

1908年 日本人の移民がピークを迎えており、日本はアメリカの反日運動を考慮して、西園寺内閣(第1次)の外相林董と駐日大使オブライエンとの間で日米紳士協定を結んだ。日本は自主的に少数を除き新規の米国への移民を禁止し、アメリカは排日的な移民法を作らないことを約束した。

1913年 カリフォルニア州議会で「外国人土地法」が成立。これにより帰化不能外国人である日系1世の土地所有が禁止になった。しかし、米国で生まれた2世には市民権があり、対象外であった。日本では「第一次排日土地法」と呼ぶ。カリフォルニア州は日米紳士協定を早くも破ったのである。なお、1920年の同法改正案では2世に対しても所有が禁止された。この法律は大戦終了後の1956年に廃止されるまで存続した。

1918年 第一次大戦終結により大量の兵士が帰国し、底辺の仕事を奪い合うことになり、とくに東洋人への排斥運動がさらに激化する。

1920年 さらに厳しい排日土地法発令。

カリフォルニア州でさらに厳しい第二次排日土地法が発令された。日本人に対して農業のための土地の利用が全て許されなくなった。日本人の借地権も禁じる法案であり、今度は市民権のある日本人移民の2世まで土地所有が禁止された。同様の法案は1924年までに10を超える州で成立した。日系人は裁判に訴えたが、米国連邦最高裁はこの「排日土地法」はアメリカ憲法、カリフォルニア州憲法、および日米条約に違反しないと判決を下した。

1922年 連邦最高裁判所は日本人移民の市民権・帰化権剥奪を認めた。

オザワ(1世の小沢孝雄)訴訟に対する判決で、日系人は帰化法により帰化権はなく、帰化不能外国人とすることは合憲であるとする判断を下した。これにより帰化権を得て米国人になっていた人も、日系ということでその権利を剥奪された。この日本人移民の市民権・帰化権剥奪は1952年まで続く。

1924年 遂に排日移民法成立。

WASPWhiteAngloSaxonProtestant)以外の移民を制限するための移民法のため、カトリックやユダヤ教の多い・東欧などからの移民も対象に含まれていたが、日本人移民が本格化する前の1890年の国勢調査時にアメリカに住んでいた各国出身者数を基準に、その2%以下にするというもので、排日色が明白であったため排日移民法と呼ばれた。この国別割当法は1965年まで続いた。「排日移民法」という呼称はその内容に着目して日本国内のみ用いられる通称である。排日土地法なども同様に日本人だけを対象としたものではないが、日本では通常「排日・・法」と称している。

 

この頃日本では1次大戦後の恐慌が長引き、慢性不況化し、関東大震災(1923年)による震災恐慌が追い打ちをかけた時代であった。この後は日本からの移民はブラジルへと移っていく。           

 

            1939年 第二次世界大戦勃発

            1941年 日本真珠湾攻撃。日本資産を凍結

            1942年 日系人の強制収容始まる。西海岸の日系人移民合計1112 万人が強制収容所に入れられた。

            1945年 第二次世界大戦終結

            1946年 日系人の強制収容解かれる

 

 

米国内では第2次世界大戦後も人種差別が続いた。

 

多くの州で人種間の結婚禁止が続いていた。西海岸の州ではアジア系と白人の結婚が禁止されていた。バージニア州で白人男性と黒人女性が結婚し懲役1年の判決を受けたが、上告し合衆国最高裁判所がバージニア州法は違憲であると判決し、残っていた南部17州でも婚姻が認められるようになった。それは1967年のことである。

 

1881年、テネシー州議会が鉄道での人種隔離を法律化したのを皮切りに、南部各州が食堂、酒場、ホテル、学校、病院などでの人種隔離を法制化した。白人以外の、黒人と黄色人種などの「有色人種」(Colored)が対象であり、当然日系人も含まれていた。加えて、なんと1896年には連邦最高裁が「隔離すれども平等」(separate but equal)、即ち隔離は差別ではないとして、合法と判断した。この人種隔離容認判断により、人種隔離は全国的な原則として認められた。 

 

 

 

 水飲み場

 

 COLORED

 MAY USE THIS とある。

 

 

第二次世界大戦後に起こった公民権運動の第一の目標はこれらのジム・クロウ制度*の廃止であった。1954年に連邦最高裁が「隔離すれども平等」の原則を破棄すると、南部各地で次々と人種隔離制度廃止の運動が成功し、1964年公民権法によって法的には人種隔離は禁止された。それは今からまだ約50年前に過ぎない。

しかし、黒人ゲットー(密集居住地区)に象徴されるような、事実上の人種隔離は根強く現在も存在している。

 

 

*ジム・クロウ法:南北戦争で奴隷が解放されたが、南部諸州においては白人優越体制を維持するために黒人条項Black Codesとされる差別諸法が制定されていた。これらをジム・クロウ法と総称する。

     

 

                                                      以   上