4 戦争に反対し続け、さらにはポツダム宣言を積極的に受け入れようとした昭和天皇

 

             ポツダム宣言

            1941S16)年95・6

            102日~121日開戦決定

            終戦の詔書 (詔書原文の写真あり)

            おわりに

 

昭和天皇は1901年(明治34年)429日生れ、19261225日大正天皇崩御により践祚、昭和と改元。1945年終戦時44歳、1989年(昭和64年)1787歳崩御。

大日本帝国憲法では「天皇」は「国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」する存在(第4条)であって、「神聖ニシテ侵スヘカラス」とされた(第3条)。日本国憲法では「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第1条)とされた。

 

昭和天皇の生涯は、戦前戦後で180度全く違う時代と立場を経験され、その変化の中においても、常に国民の安寧を願い続けておられていたことが浮かび上がってくる。

戦争に反対し続けた昭和天皇、さらにポツダム宣言を積極的に受け入れようとした昭和天皇。天皇のポツダム宣言の受け入れと終戦への決定が、新しい日本へと踏み出す日本にとって、最良の道筋であったことは今日の日本の繁栄が示している。

 

天皇は、そのお気持があふれだし、立憲主義の枠組みを超えて行動せざるを得なかった例として、二・二六事件と終戦時の御前会議の2つを挙げておられる。

 

 明治以降、日本の針路に大きく関わった分水嶺は、第1次世界大戦中の対華二十一ケ条要求と二・二六事件と言われている。昭和天皇が36歳時であった二・二六事件は昭和史の大きな転換点であった。惨殺された斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監は昭和天皇の信任厚い「朕が股肱の老臣」であり、また、英米との関係を重視する国際協調主義者でもあった。二・二六事件は青年将校による国軍の私兵化そのものだったと言える。 二・二六事件(1936(昭和11)年226日)に関しては、当時侍従武官長であった本庄繁陸軍大将による「本庄日記」に天皇と側近の4日間が詳細に記されている。参考:「 二・二六事件8 をご覧下さい。

 

2つめは、太平洋戦争における終戦の決定とされている。敗戦を決めきれない軍部も内閣もそして側近も、天皇に決定を投げたのである。陸軍の一部には戦争継続を主張してクーデター決行の準備が進み緊迫する中、御前会議が開かれ、8月14日午後11時にポツダム宣言を受諾し無条件降伏を天皇が決断した。直ちに米国にポツダム宣言受諾を連絡し、詔書が発せられた。戦争の奔流は天皇によってやっと押し止められた。

 

 ポツダム宣言

天皇はポツダム宣言の内容を知り、日本の国としてそれを積極的に受諾すべきと判断したのである。

昭和天皇が注視したポツダム宣言は十、十二項である。 参考:「ポツダム宣言8 をご覧下さい。

 

十、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ                非サルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本 国政        府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思          想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ

十二、前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ         樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ  とある。

 

上記の通り、「戦争犯罪人への処罰」、そして「民主主義」、「言論・宗敎及び思想の自由」、「基本的人權の尊重」を確立したら、占領軍は「直ちに日本国より撤収」する、と明記されていたのである。天皇はこの内容を知り、自分も含めて戦争犯罪人の処罰は当然とし、それよりも日本が今後国として目指すべきは十項で示された方向であるとして、積極的にポツダム宣言を受諾すべきと判断したのである。 参考:「ポツダム宣言」8 をご覧下さい。 

 

昭和天皇の自らの思いは以上の2件であるが、ここで筆者は是非、昭和天皇最後の戦争回避への努力を明記して付け加えたい。

それは太平洋戦争開戦直前の1941年(昭和16年)9月にあった御前会議と10月の「白紙還元の御諚」である。

 

それへの7月末からの経緯を記す。

 

7月、南部仏印進駐を決定し28日から進駐を開始した。南部仏印進駐は仏印の援蒋ルートを完全に遮断し、さらに英国のマレー半島、シンガポールなどや、オランダの蘭印(インドネシア)などの植民地資源、石油資源その他を直接脅かした。援蒋ルートはビルマ雲南ルートで再開された。

7月 25日 ルーズベルト大統領は日本の在米資産凍結令を公布。英・蘭も追随した。

 

8月 1日 米国は石油の対日全面禁輸。

当時、日本の石油輸入依存度は約92%、しかも石油輸入の81%を仮想敵国である米国に依存していた。

アメリカは対日石油制限を発表する。それは日本への石油輸出の制限と潤滑油と航空機用ガソリンを輸出禁止にしたもので、アメリカからの石油の全面禁輸ではなかった。ルーズベルト大統領は全面禁輸を意図していなかった。それをすれば、日本と戦争になるのが明白だったからだ。それにもかかわらず、アメリカ政府内の対日強硬派によって、81日以降、実質的に全面禁輸措置が取られた。驚くべきことに、ルーズベルトがこの事実を知ったのは9月上旬であった。しかし、ルーズベルトはそのまま全面禁輸を継続させた。

8月 8日 近衛首相はルーズベルト大統領との直接会談で事態を打開しようとハル国務長官へ「近衛メッセージ」の写しを手交した。ルーズベルト大統領はこの日英国チャーチル首相と戦後処理について大西洋上会談中であった。なお、この時点ではアメリカはまだ参戦していない。参戦は真珠湾攻撃以降である。

8月29日、野村駐アメリカ大使はルーズベルト大統領との会談において「近衛メッセージ」の本文を改めて手交した。

 

9月 3日 ルーズベルト大統領は近衛メッセージへの回答を野村に手交。回答は首脳会談には予備会談が必要だという時間延ばしでしかなかった。米国側は条件を引下げる気はなく、交渉はすでに終わったも同然であった。このような情勢下で、日本はいつまでもあてのない対米交渉を継続すべきか、見切りをつけて開戦すべきか、重大な決断を迫られた。

9 6日「帝国国策遂行要領」を御前会議で決定した。 

その内容は、

    1.対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す

    2.右に並行して米英に対し外交の手段を尽して帝国の要求貫徹に努む

    3.前号外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す 

 

1941S16)年95日・6 

 天皇による戦争回避への山場はこの御前会議の前日にあった。

5日、近衛首相の帝国国策遂行要領の事前奏上に対し天皇は多くの不安を示した。「昭和天皇実録*」によれば、「本要領は第一項に対米戦争の決意、第二項に外交手段を尽くすとあるため、戦争が主、外交が従であるが如き感ありとして、その順序を改めるようお求めになる」。天皇は外交交渉を最優先で行うことを明確にせよと迫ったのである。首相は項目の順序は軽重を示すものではない旨奉答するも、「御納得なく、作戦上の疑問等も数々あるとして」、杉山参謀総長・永野軍令部総長を呼んだ。

近衛、杉山、永野が揃ったところで、天皇は「外交を主とし、戦争準備を副とすべきにつき、要領の第一項と第二項の入れ替えを要する旨のご意向を示される」。杉山よりの「戦備完整後に外交交渉を行う所以を言上」に対して天皇から「南方作戦の成算と予測される事態への対処方につき種々御下問になる」。杉山参謀総長が、陸海軍の研究の結果「南方作戦は約五箇月にて終了の見込みである旨を奉答するも、天皇は納得されず、従来杉山の発言はしばしば反対の結果を招来したとされ、支那事変当初、陸相として速戦即決と述べたにもかかわらず、未だに事変は継続している点を御指摘になり」、杉山は「支那の奥地が広大であること等につき釈明するや、天皇は支那の奥地広しというも、太平洋はさらに広し、作戦終了の見込みを約五箇月とする根拠如何と論難され、強き御言葉を以て参謀総長を御叱責になる」。天皇は杉山を全く信用していない。永野軍令部総長が話を引継ぎ、「現在の国情は日々国力を消耗し、憂慮すべき状態に進みつつあり、現状を放置すれば自滅の道を辿るに等しきため、ここに乾坤一擲の方策を講じ、死中に活を求める手段に出なければならず、本要領はその趣旨により立案され、成功の算多きことを言上する」。しかし天皇は重ねて「強い御口調にて勝算の見込みをお尋ねになる」。軍令部総長は「勝算はあること」を、ついで両総長は「決して戦争を好むものにあらず」と言上、加えて首相も「両総長と同じ気持ちである旨の言上あり」、やむなく天皇は3人の「言上を承認する旨を述べられる」。

 

    〇乾坤一擲:さいころを擲(な)げて、その1回だけの賽(さい)の目に、天が出るか地が出るかを賭けることを                             いう。「乾坤」は天地のこと。運を天に任せて、のるかそるかの大勝負をすること。

    〇死中に活を求める:絶望的な状況で生き延びる道を探すこと。転じて、窮地の打開策として、あえて危険                             な道を選ぶこと。

 

筆者は敢えて〇印両項目の含意を上記した。統帥部の長がそろって、極めて危険な大勝負であると認識しており、軍人等によるこの動きを止めるのは本来政治の責任の筈である。しかし、もはやその機能は政治には無かった。

軍はあらゆることを想定し準備をするが、それが勝手に動き出さないようにするのは政治の役割だ。このことは、現在の日本においてもまたこれから先も、日本人が決して忘れてはならないことである。

 

御前会議の議案は、事前の内奏の段階で天皇の実質的な検討と承認をすませており、御前会議そのものはセレモニーで、天皇は発言せず、天皇の意向は枢密院議長が伝えることになっていた。

しかし、96日の御前会議は違った。天皇の意向を枢密院議長が述べたことに対し、海軍大臣が第一項目の戦争準備と第二項の外交の間には軽重はないと答弁し、その後首相の訪米による和平交渉への支援要請などがなされた。

御前会議が「まさに終了せんとする時、天皇より御発言あり。天皇は、事重大につき、両統帥部長に質問すると述べられ」、「両統帥部長は一言も答弁なかりしが如何、極めて重大な事項にもかかわらず、統帥部長より意志の表示がないことを遺憾に思うと仰せられる。」さらに天皇は「明治天皇の御製『よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ』を詠み上げ、両統帥部長の意向を質される。」近衛首相はこの昭和天皇の言葉に「全員恐僭して、しばらくは言も発するものなし」と日記に書いている。沈黙の後、軍令部総長は、海相が答弁しているので改めて言わなかったと述べ、参謀総長も同じと奉答し、御前会議は閉会した。

その後、天皇は内大臣木戸幸一に「明治天皇の「よもの海」の御製を引用し、外交工作に全幅の協力をなすよう述べた」のだと話している。

天皇はあくまで第1項目に外交による戦争回避を明記すべきとする意志表示と、それに従わない、杉山参謀総長・永野軍令部総長を御前会議の場で叱責している。

   

*昭和天皇実録:昭和天皇の生涯をまとめた唯一の公式記録集。201499日に発表された。全61冊、計約12千ページ。宮内庁が、側近の日誌や公文書など3千点余りの資料をもとに、1901年の誕生から89年の死去、大喪の礼までを時系列にまとめたもの。

 

    *よもの海…:よもの海は、みんな同じ人間、同じ家族であり兄弟なのに、どうして争いが起こるのだろう                                か、という明治天皇の御製歌。

 

 詩歌の朗読では、意志はどれほど明瞭に感取されても、手続き上の決定力をもたない。列席者は恐懼したがそれだけである。流れは変わらず、そのまま天皇は、強硬な東篠陸相と、両統帥部長に押し切られたのである。近衛内閣は総辞職へと向かう。

 

前日の5日、永野軍令部総長による、乾坤一擲、死中に活を求める手段に出なければならず、とする発言は、もはや戦争を開始してもその国力からも勝ち目はなく、一撃講和を目指して、それも大戦果を挙げておくためには奇襲攻撃しかないことを、軍部は承知していた。連合艦隊司令長官山本五十六はハワイ奇襲作戦を1月(1941年)には検討を開始し、4月には実施部隊となる第一航空艦隊が編制され、猛訓練を開始していた。

 

102日~121日開戦決定

10 2日 ハル米国国務長官は野村大使へ仏印と中国から全面撤兵を求める覚書を手交。米国の対日強硬姿勢により日米交渉は完全に行きづまった。

1013日 昭和天皇実録によれば、この日、天皇は内大臣木戸幸一に「万一開戦となる場合には、…戦争終結の手段を最初から十分に考究し置く必要があり、そのためにはローマ法王庁との使臣の交換など、親善関係を樹立する必要がある旨を述べられ」ている。しかし、バチカンは重慶政府の使節を受け入れた。天皇が開戦に当たり戦争終結を見据えるよう指示したことは、誠に天皇の慧眼である。日露戦争開戦時の伊藤博文のルーズベルト大統領への動きを思い起させる。 

1017日 昭和天皇実録によれば、後継内閣首班の奏薦のための重臣会議において、内大臣木戸幸一が「九月六日の御前会議決定を再検討する必要の見地から、陸相東篠英機を首相とし、陸相兼務とすることを主張」し、決定した。

 

 この木戸の推挙は、対米開戦へ最強硬派の陸軍全体を抑えられるのは陸相東篠しかいない、また東篠は天皇の意向を絶対視する人物であり昭和天皇の意を汲んで戦争回避に動くであろう、と木戸が逆転的発想をしたと言われている。後に天皇は木戸の東篠推挙の上奏に対し、「虎穴に入らずんば虎児を得ざる旨のご感想を述べられる」とある。もはや誰も戦争を止められず、遂に天皇も乾坤一擲、東篠を選ばざるを得なかった。昭和天皇は木戸とともに、最後の希望を東篠に託したのである。この首班指名には他ならぬ東篠本人が一番驚いた。

 

天皇は東篠陸相に組閣を命ずる。

内大臣は天皇の意向を受けて、東篠陸相、及川海相に「国策の大本を決定せられますに就いては、九月六日の御前会議の決定にとらはる々処なく、内外の情勢を更に広く深く検討し、慎重なる考究を加ふることを要すとの思召しであります。命に依り其旨申上置きます」と、いわゆる白紙還元の御諚を言い渡した。   

 

1018日 第3次近衛内閣は総辞職し、東篠内閣が発足した。

皇居での首相任命の親任式が行われた。天皇への絶対忠信の東篠は、それまでの開戦派姿勢を直ちに改め、外相に対米協調派の東郷茂徳を据え、帝国国策遂行要領を白紙に戻し、再検討を開始した。内閣組閣後の東篠の態度・行動は、陸相時の見解とは全く違ったものであり、昭和天皇の意志を告げられた忠臣・東篠は、天皇の意向の実現に全力を尽くそうとしたことがよく窺えた。 

東篠は陸軍大臣の経験はあり軍政部門での実務には長けていたが、国政全般を通視する経験には乏しかった。東篠は天皇の意向、白紙還元の御諚により統帥部を説得しようとするも、杉山参謀総長は即時開戦を主張して止まなかった。

 

残念ながら遅すぎた。米国側の強硬な姿勢は続いた。軍部も白紙還元などありえず、着々と準備を整えていた。

 

11月 5日 御前会議で新・帝国国策遂行要領が承認された。

緩和した対米交渉の甲乙二案を定めるとともに、「武力発動ノ時機ヲ十二月初頭ト定メ陸海軍ハ作戦準備ヲ完整ス」とし、「対米交渉ガ十二月一日午前零時迄ニ成功セバ武力発動ヲ中止ス」とした。御前会議決定による最高の国家意志として、戦争の決意と開戦の時期を定めざるを得なかったのである。甲乙二案を定めたが、それは、米国の要求する支那・仏印からの全面撤退には程遠いものであった。東篠も、緩和案を示しての対米交渉がまとまらねば、開戦へ至ると決意せざるをえなくなった。

 

1123日 帝国海軍第一航空艦隊(南雲機動部隊)が択捉島単冠湾に集結した。

1126日 朝8時、機動部隊はハワイへ向けて奇襲攻撃のため単冠湾を出港した。    

1127日 野村・来栖-ハル会談で、米国は日本側の最終打開案を拒否し、ハル・ノートを手交した。それは、日本の中国およびインドシナからの全面撤退、中華民国国民政府以外のいかなる政権をも認めない、日独伊三国軍事同盟の実質廃棄、などの内容であった。日本側はこれを米国の最後通牒と認めざるを得なかった。 

 

12 1日 御前会議において、日本時間128日の開戦を最終決定した。開戦指示「新高山登(ニイタカヤマノボ)レ 一二〇八(ヒトフタマルハチ)」の暗号が翌21730分、山口・岩国沖に停泊中の連合艦隊旗艦、戦艦「長門」から連合艦隊の全部隊に発信された。  

 

天皇により「白紙還元の御諚」が発せられたものの、米国の要求はとてものめるものではなかった。しかし4年後には、極めて多大な犠牲と消耗の上に、それを飲まざるを得なくなるのである。乾坤一擲は賽の目が天ではなく、出るべくして地が出た。

 

なぜ早期講和に踏み切れなかったのか。

 

 講和への道は戦争末期にやっと始まった。近衛を中心に牧野伸顕、吉田茂、鳩山一郎、軍人では真崎甚三郎、小畑敏四郎などだが、彼らが公然たる活動を開始したのはレイテ沖海戦で連合艦隊が壊滅し(4410月)、ドイツ本土での地上戦が本格化した1945年になってからであった。1945年6月、ソ連へ和平工作を要請した。7月には近衛公のモスクワ派遣まで決めたが、スターリンはすでに対日参戦を決意しており、88日には対日宣戦布告した。ソ連に講和を頼むなど、情報判断能力として、これでは日本は戦争に勝てるとは思えない。既にナチス・ドイツは5月には消滅していた。

 

 なお、ソ連軍の本土・ 北海道(留萌への)侵攻作戦が824日に決行される予定であったが、トルーマン大統領の介入で阻止され、朝鮮半島での南北分割統治が日本ではおこなわれることはなかった。日本にとっては極めて大きな幸運であったと言える。

 

終戦の詔書

1945810日午前2:30、御前会議でポツダム宣言受諾を決定。

     14日、日本はポツダム宣言を正式に受諾した。

昭和天皇は戦争に反対してきたにもかかわらず、それがならず、敗戦を迎えた。その天皇の思いが815日の「終戦の詔書」に、当時の世相や様々な困難な状況下ではあったが、それを踏まえつつ実に見事に語られている。筆者も「堪え難きを耐え、忍び難きを忍び…」を聞いたことはあるが、全文を読んだことはなかった。しかし今回、「終戦の詔書を」読んでて、はじめて昭和天皇の「思い」を実感することができた。是非、皆さんも読まれることを願っている。

 なお、終戦の詔書は安岡正篤が原案に加筆修正して完成させた。

  

 

[終戦の詔書]

朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク

朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ

朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負イ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス

朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ

 

御名御璽

 

昭和二十年八月十四日

        内閣総理大臣  男爵 鈴木貫太郎

                   海軍大臣       米内光政

                   司法大臣       松坂広政

                   陸軍大臣       阿南惟幾

                   軍需大臣       豊田貞次郎

                   厚生大臣       岡田忠彦

                   国務大臣       桜井兵五郎

                   国務大臣       左近司政三

                   国務大臣       下村宏

                   大蔵大臣       広瀬豊作

                   文部大臣       太田耕造

                   農商大臣       石黒忠篤

                   国務大臣       安倍源基

                   外務大臣兼大東亜大臣 東郷茂徳

                   国務大臣       安井藤治

                   運輸大臣       小日山直登         

 

大意

 私は深く世界の大勢と日本の現状に鑑み、非常の措置をもって時局を収拾しようと思い、忠実で善良な国民に告げる。

 私は帝国政府に米国、英国、中国、ソ連の4カ国に対しそのポツダム宣言を受諾することを通告させた。

 そもそも、国民の安全確保を図り、世界の国々と共に栄え、喜びを共にすることは、天皇家の祖先から残された規範であり、私も深く心にとめ、そう努めてきた。先に、米英2カ国に宣戦を布告した理由も、帝国の自存と東亜が安定することを願ってのことであり、他国の主権を排除し、領土を侵すようなことは、もちろん私の意思ではなかった。

 しかしながら、戦争はすでに4年を経て、わが陸海軍将兵の勇敢な戦闘や、官僚たちの勤勉な努力、国民の無私の努力は、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の情勢も日本に不利に働いている。

 それだけでなく、敵は新たに残虐な爆弾を使用して、罪のない人々を殺傷し、その被害ははかり知れない。それでもなお戦争を継続すれば、ついにわが民族の滅亡を招くだけでなく、人類の文明をも破壊してしまうだろう。そのような事態になれば、私はどうしてわが子ともいえる多くの国民を守り、代々の天皇の霊に謝罪することができようか。これが、私が政府にポツダム宣言に応じるようにさせた理由である。

 私は日本とともに終始、東亜の解放に協力してきた友好国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。

 国民で、戦場で死亡し、職場で殉職し、思いがけない最期を遂げた者、またその遺族のことを考えると、身が引き裂かれる思いがする。さらに戦場で負傷し、戦災に遭い、家や仕事を失った者の生活については、私が深く心配するところである。思うに、これから日本の受けるであろう苦難は尋常ではない。あなたたち国民の本心も私はよく知っている。しかし、私はこれからの運命について耐え難いことを耐え、忍び難いことを忍んで、将来のために平和な世の中を切り開こうと願っている。

 

 私は、ここにこうして国体を護持して、忠実で善良な国民の偽りのない心を信じ、常にあなた方国民と共にある。もし激情にかられてむやみに事をこじらせ、あるいは同胞同士が排斥し合って国家を混乱に陥らせて、国家の方針を誤って世界から信用を失うようなことを私はもっとも戒めたい。国を挙げて一つの家族のように、子孫ともどもかたく神の国日本の不滅を信じ、道は遠く責任は重大であることを自覚し、総力を将来の建設のために傾け、道義心と志をかたく持ち、日本の栄光を再び輝かせるよう、世界の動きに遅れないよう努力すべきだ。あなた方国民は私のそのような考えをよく理解してほしい。(公益財団法人郷学研修所・安岡正篤記念館監修) 

 

 

 

おわりに

日本は負けるべくして敗戦へと落ち込んだ。冷静に考えれば、昭和天皇や一部の人だけではなく、誰もが戦争継続、拡大は困難であり無謀と認識できたはずだ。しかし、軍部独走により最終戦争へと引きずり込まれた。米国を知り開戦に反対していた山本五十六でさえも、一撃講和なら開戦、講和の可能性ありとしてしまった。

普通の民族なら空襲や原爆を投下した米国を憎み、恨むのが普通だが、日本人にはそれが希薄だ。1945815日、日本国民は終戦により平和に対して大きく眼を開かせられた。意識が180°変化し、それから今日まで日本人は、平和を教えてくれた米欧の国々や世界のどの民族よりも平和を大切に維持しようとし続けている。これは民族紛争のない極東の島国だからできることかもしれないが、この国を世界の諸民族や国々が注視して、75年間も平和が存在し続けていることを見て欲しい。これから先の、平和の持続と拡大を日本人は願い続けている。

後日談ではあるが、靖国神社が極東国際軍事裁判において処刑されたA級戦犯ほかを秘密裏に合祀したことが、1979年(昭和54年)4月に新聞によって報道され国民の広く知るところとなった。昭和天皇はそれ以降靖国神社親拝をされていない。戦争に反対し続けたお気持ちが如実に表れている。私もそれ以降靖国神社へは行かない。新しく祀られたA級戦犯の霊を拝したくないのではなく、秘密の行為をする靖国神社のその姿勢が、参拝に値しない神社になってしまったと感じるからである。

2021年6月8日の新聞記事に「A級戦犯の遺骨 太平洋にまいた」との米国の公文書が見つかった、とあった。靖国神社へ納められたのは遺骨ではなかったようだ。

  

 

                                      以  上