参考:「不平士族のはけ口としての征台の役」

 

「不平士族」のはけ口がなぜ「征台の役」へとなったのか

 

征台の役 1874年(明治74月~12月)

 

明治政府は維新後から明治10年の西郷隆盛による西南の役まで、「不平士族」に悩まされ続けた。先ずは、戊辰戦争における勝ち組武士への、従来なら知行・恩賞に当たる見返りに対する明治政府への不満が中心であった。その後の明治4年には廃藩置県が断行され武家社会は終わった。翌年には田畑売買禁止の解除など、封建的な土地制度を廃止し、さらに同6年地租改正が行われた。これはこれまでの年貢制度を廃止し、農民に土地の所有権を認めるとともに地価の3%を地租として、藩主ではなく明治政府へ納めさせるという納税の大改革であったOk

 廃藩置県以降財政的基盤を失った旧藩では、士族を養いかねて農工商の職業につかせることを奨励し、士族結社などによる原野の開拓もあちこちで行われた。しかし、商業に就いた者も農業に就いた者も、その多くは経営に破綻し、巷では「士族の商法」などと揶揄されていた。

 同時期の明治6年には朝鮮の国書受け取り拒否という無礼に対し征韓論が湧き起こっていた。このような状況下において西郷隆盛の征韓論の敗退による「明治6年の政変」*が加わり、岩倉使節団派遣中の留守政府参議9名中の5名(西郷(薩摩)、板垣(土佐)、後藤(土佐)、江藤(佐賀)、副島(佐賀))が辞任する事態となり、より反政府意識が高まっていった。

明治政府の国防は、明治6(1873)年の徴兵制に至るまでの兵力は国内治安維持をなし得る程度に過ぎなかったが、徴兵令施行により日本軍の総兵力は、陸軍・海軍とも以降次第に増加していった。

当時琉球は島津と清の両属の関係にあった。1871年の廃藩置県で琉球を鹿児島の管轄下とした後も、実質的には二股のそれは変わらなかった。1871年(明治4年)、台湾に漂着した琉球の民54名が原住民(生蕃)に殺害された牡丹社事件は、琉球両属問題を決着させる契機となった。清からの回答は、台湾の蕃民には熟蕃、生蕃の2種類あり、生蕃を化外とし管轄外としたため、牡丹社事件の処理は日本が処置することになった。

1873年(明治6年)10月の明治六年政変、また、翌18741月の岩倉具視暗殺未遂事件、2月の江藤新平による佐賀の乱が起こるなど政情不安が高じていた。明治六年政変時における明治天皇の勅裁は、ロシアとの国境紛争*を理由とした征韓の「延期」であったため、ロシアとの国境が確定した際には、征韓派の要求が再燃する可能性が高かった。政変で下野した副島にかわって外交を担当することになった大久保(薩摩)は、征韓論による朝鮮よりも制圧が容易と思われた台湾出兵をむしろ積極的に押した。加えて、上述のような国内の不満を征台の役、海外出兵という大事業にて発散させようとしたのである。1874年(明治7年)4月、参議の大隈重信を台湾蕃地事務局長官として、また、西郷隆盛の実弟陸軍中将西郷従道を台湾蕃地事務都督として任命し、軍事行動の準備に入った。

 

    *明治6年の政変:征韓論の賛否を巡る一大政変。政府首脳の参議9名中征韓派の5名(西郷、板垣、後藤、江藤、副島)と軍人、官僚約600人が職を辞した。(参議では木戸、大久保、大隈、大木が残った)

    

    *明治7年5月千島樺太交換条約の調印締結により北方領土を確定した。安政元年(1855年)の日露和親条約においては樺太について国境を定めることができず、日露混住の地とされ、その後ロシアの樺太開発が本格化し、日露の紛争が頻発するようになっていた。今条約において樺太での日本の権益を放棄する代わりに、得撫島(うるっぷとう)以北の千島18島をロシアが日本に譲渡することとなった。

 

台湾出兵に対しては、政府内部や英米の公使からの反対意見もあり、特に、参議木戸孝允らの長州系は征韓論を否定しておきながら、台湾への海外派兵をおこなうのは矛盾であるとして反対の態度をくずさず、418日、木戸は参議の辞表を提出して下野した。政府は一旦派兵の中止を決定した。

しかし、西郷従道は独断での出兵を強行し、長崎に既に待機させていた征討軍約3,000名を出動させた。征討軍の半分は「植民兵」として薩摩など九州各地の士族で、占領地永住を前提に募集・編成されたものであった。西郷はもはや止めるわけにはいかず、政府もやむなくこれを追認した。

清との開戦の危機を避けつつ、8月全権弁理大臣として大久保利通が北京に赴いて交渉した。会談は難航したが、同年10月、北京駐在のイギリス公使トーマス・ウェードの仲介によって「日清両国互換条款」が調印された。ウェードは、日清で戦端が開かれれば、清国は自力で日本と戦える状態になく、戦端が開かれれば中国各地で内乱が起こり、英国の通商に打撃があるとして仲裁を試み、日清とも戦争を避けることができた。

条款では、清国は日本の出兵を「義挙」と認め、難民に対する撫恤金(見舞金)を含め50万両支払うという内容であった。その和解書の文面に「台湾の生蕃かつて日本国臣民らに対して妄りに害を加え」という一文が入ったので、明治政府は清朝が琉球を日本の一部であると認めたものと解釈し撤兵に合意した。

台湾での征討軍ではマラリアの罹患者が続出する状況であった。征台の役での死傷者の数には諸説あるが、戦死者は12名と少なかったのに対し、マラリア等の感染症により561名が病死したと言われている。司令官であった西郷従道すら、このとき罹ったマラリアで生涯悩まされた。

征討軍は政府方針の撤兵に従った。植民兵の撤兵となり、不平士族のはけ口として次の目標が必要になった。

なお、琉球の領有を確定するには日清戦争を待つことになる。

 

その後不平士族の組織的反乱は、明治9年10月に神風連の乱(熊本県)、秋月の乱(福岡県)、萩の乱(山口県)と拡大し、いよいよ明治10年(1877)維新の英雄・西郷隆盛による最大かつ最後の反乱、西南の役を迎える。これらの反乱を勢いづかせたのは、これらの乱に先だつ明治9年の廃刀令(3月)と家禄の廃止(秩禄処分・8月)であった。

 

            以   上