参考:「幕末の海外派遣から岩倉使節団まで 先進国文明の急速吸収」 

  

 岩倉使節団派遣に先立つ10数年の間にも、徳川幕府が6次に亘る欧米への大人数の使節団や多数の留学生団を送り、西洋諸国を知りその先進文化を取り入れようとした実績がある。幕府及び各藩の数百名にも及ぶこれらの渡航者の持ち帰った情報や収集物が、貴重な人材、資料として明治の近代化を可能にした。

  主な海外派遣を振り返ってみよう。

 

① 1860年 万延元年遣米使節

江戸幕府が日米修好通商条約の批准書交換のために1860年に派遣した使節団。1854年の開国後、最初の公式訪問団である。1854年(嘉永7年)に締結された日米和親条約に続き、1858年(安政5年)には日米修好通商条約が締結された。批准書の交換はワシントンで行うとされたため、江戸幕府は米国に使節団を派遣することとなった。

外国奉行および神奈川奉行を兼務していた新見豊前守正興が正使に任命され、使節団は77人であった。米国海軍のポーハタン号で太平洋を横断し、3月サンフランシスコへ到着した。正使一行とは別に護衛を名目に咸臨丸を派遣することになり、軍艦奉行であった木村喜毅に司令官を命じ、勝海舟、通訳にアメリカの事情に通じた中浜万次郎(ジョン万次郎)、福澤諭吉等96名が乗船している。咸臨丸はワシントンへ向う正使一行と別れ、ホノルルを経て浦賀へと帰還した。

使節団はサンフランシスコに9日滞在し、47日、パナマへ向かって出港した。パナマ鉄道(運河開通は1914年)にて大西洋側のアスペンウォールへ。ワシントンには1860514日に到着した。17日にブキャナン大統領に謁見、批准書を渡し、22日に批准書は交換され、最大の任務は完了した。

ワシントンには25日間滞在するが、その間にスミソニアン博物館、国会議事堂、ワシントン海軍工廠、アメリカ海軍天文台を訪れるなど、休む間もない日々を過ごしている。ワシントンを出発しボルチモア、フィラデルフィア、ニューヨークに到着した。ニューヨークではブロードウェイでパレードが行われ50万人もの人が集まり、空前と言われる大歓迎を受ける。当時のニューヨーク・タイムズは「市の歴史で最も目新しく華々しいイヴェントの一つ」だと評している。630日、ナイアガラ号で帰国の途についた。なお、一行がニューヨークを出発するとき、当時世界最大の客船であったグレート・イースタンがニューヨーク港に停泊していた。グレート・イースタンは排水量32160トン、全長211mの巨大船で、一行はこれを軍艦と勘違いしたが、日本と列強との科学技術の差を強く意識させられた。

ニューヨークを出発した一行は喜望峰を回ってインド洋に入り、オランダ領バタヴィア(現インドネシア、ジャカルタ)、英領香港を経由し、119日に品川沖に帰着した。

 

使節団は9カ月をかけて、津太夫*一行以来、日本人として2番目の世界一周をはたした。

なお、ブキャナン大統領と批准書を交換した6か月後にはリンカーンが大統領選に当選し、翌年から4年間に亘る南北戦争が始まっている。

 

*津太夫:寛政5(1793)年に石巻の廻船の乗組員として江戸へ向かう途上で漂流、アリューシャン列島へ漂着してロシア人の保護を受け、イルクーツクに定住。のちレザノフの日本派遣に伴っての通訳とするため、ペテルブルクに送られ、アレクサンドル1世に拝謁、ロシア初の世界周航航海でもあるクルーゼンシュテルンの艦隊に乗船、南アメリカ南端のホーン岬を経て太平洋へ入り、ハワイ諸島を経て、カムチャツカ半島ペテロパウロフスクに到着した。文化1(1804)年長崎に送還され、翌年日本側に身柄を渡された。他3名と共に、図らずも日本人初の世界一周を果たした漂流民である。

 

 1862年文久遣欧使節(第1回遣欧使節、開市開港延期交渉使節)

江戸幕府がオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルとの修好通商条約(1858年)で交わされた両港(新潟、兵庫)および両都(江戸、大坂)の開港開市延期交渉*と、ロシアとの樺太国境画定交渉のため、文久元年(1862年)にヨーロッパに派遣した最初の使節団である。正使・竹内下野守保徳らに福沢諭吉も加わり総勢36名となり、さらに後日通訳2名(蘭語、英語)が加わった。実務的交渉のみならず、西洋事情探索を公的な使命としていた。帰国後、福沢は「西洋事情」を著し、それは大ベストセラーとなり明治の人々の西洋理解を促した。

文久元年1222日、(1862121日)、一行は英国海軍の蒸気フリゲート艦オーディン号で品川港を出発した。英領香港、英領シンガポール、英領セイロン、英領イエメンを経てエジプト・スエズに上陸(運河開通は1869年)、鉄道でカイロからアレクサンドリアに出て、船で地中海を渡り、マルセイユに入った。パリに到着(47日)し、フランスと交渉したが、開港延期の同意は得られなかった。その後430日、ロンドンに到着した。ここで、日本の内情を知るオールコック(初代駐日公使)が休暇帰国するのを待ち、オールコックの協力を得て、66日、日本国内の事情に鑑み、兵庫、新潟、江戸、大坂の開港・開市を5年延期し、186811日とするロンドン覚書が調印された。その後、オランダ、プロイセン・ベルリンと他国とも同様の覚書を締結した。その後、ロシア・サンクトペテルブルクに入る。しかし、樺太国境画定に関するロシアとの交渉は合意に至らなかった。帰路は英領ジブラルタルを経由、往路とほぼ同じ行路をたどり、1863130日(文久21211日)、約1年間の旅を終え一行は帰国した。ロンドン万博の日本コーナーにはオールコックが、自身で収集した漆器や刀剣、版画といった日本の美術品のほか、蓑笠や提灯、草履なども展示されていた。また、開会式には文久遣欧使節の一行が参加し、日本が万博に関与した最初の事例となった。オールコックのコレクションに対するロンドンでの評価は、日本の国民性をみごとに表現したものとして評価され、ヨーロッパにおけるジャポニズムの契機にもなった。

 

 

      *両都両港開市開港延期問題:江戸幕府は、安政五カ国条約によって、江戸・大阪(両

                  都)の開市と新潟・兵庫(両港)の開港を約束していたが、国内問題(攘夷熱

                  の高まり)によって、それを遅延せざるをえなくなった。幕府は交渉のため

                  文久遣欧使節を送り、最終的にロンドン覚書やパリ覚書によって遅延が認めら

                  れたが、代わりに輸入関税の低減化や生糸などの輸出自由化などの代償を負う

                  ことになった。

 

 1862年上海使節団第一次派遣:

 

江戸幕府は、清朝の動乱や欧米列強のアジアでのあり方を調査するため、太平天国の乱の末期にあたる186262日、御用船千歳丸を上海に派遣した。交易が表面上の理由であったが、清朝の情報収集が本来の任務で、2カ月間逗留した。日本人が中国を正式に見聞するのは2世紀ぶりであった。薩摩藩の五代友厚や長州藩の高杉晋作ら50名が参加した。その後幕府からは二次(1864年)50名、三次(1865年)3名、四次(1867年)10名と上海へ使節団が送られた。

 

 

④ 1862年幕府によるオランダ留学生派遣

西洋の学術・技術の導入は急務であった。幕府はそのために西欧に留学生を派遣する計画を立て、当初軍艦注文と留学生の派遣先にアメリカを考えていたが、南北戦争のために断られると、オランダに依頼を働きかけ、軍艦の発注と留学生派遣を交渉、決定した。文久2313日(1862.4.11)に命を受けたメンバーは、軍艦操練所から榎本武揚、沢太郎左衛門、赤松則良、内田正雄、田口俊平、蕃書調所から津田真道、西周、そこに、長崎で医学修行中の伊東玄伯、林研海が加わり、さらに鋳物師や船大工等の技術者である職方7名が一向に加わった。オランダ留学生達は、留学先で海軍関連の技術や社会科学、医学等を学んだ。慶応元年10にまず西と津田が帰国の途につき、慶応210には伊東、林、赤松以外は注文した軍艦開陽丸で帰国した。赤松は大政奉還後の慶応45に、伊東と林は明治元年12に帰国の途についている。

 

⑤ 1863年第2回遣欧使節団

横浜鎖港談判使節団とも呼ばれる。外国奉行池田筑後守長発を正使とし、1863年文久31229日から元治元年722日にかけて(186426日~823日)幕府がフランスに派遣した34名の外交団である。使節団の目的は、開港場だった横浜を再度閉鎖する交渉を行うことであった。

孝明天皇は文久3510日(1863625日)をもって攘夷の勅命を発しており、これに従って幕府は各国公使に対して開港場の閉鎖を通達するが、諸外国は当然これを拒否し、幕府も9日後にはこれを撤回していた。更に下関事件や薩英戦争、フランス士官カミュ殺害事件等が起きて諸外国との軋轢も高まっていた。

このような状況で、幕府は攘夷派を懐柔する為、江戸に近い横浜の閉鎖を交渉するために使節団を派遣するが、もとより達成不可能な任務であった。なお、使節団の目的にはフランス士官殺害事件の賠償交渉も含まれていた。一行は文久31229日(186426日)にフランス軍艦ル・モンジュ号で日本を出発。上海やインド等を経由し、スエズからは陸路でカイロへ向かい、途中ギザの三大ピラミッドとスフィンクスを見学し写真を撮っている。その後地中海を通って、マルセイユに入港した。パリに着いた一行は皇帝ナポレオン3世に謁見した。然し横浜の鎖港に関する交渉は、横浜を対日貿易・交渉の拠点と考えるフランスの抵抗にあい失敗に終わった。また、正使池田筑後守長発自身も西欧の文明の強大さを認識して開国の重要性を感じ、交渉を途中で打ち切り、一行は他の国には寄らずそのまま帰路に就き、同年722日(823日)に帰国した。

 

⑥ 1863年長州五傑の留学 

当時長州藩は幕府が締結した不平等条約の破棄と、強硬な攘夷を唱える急先鋒であった。しかし阿片戦争以来、強大な清国でさえ列強に蹂躙されたことから、同藩は攘夷を成功させるには敵である西欧の文明技術を学ばなくてはならないとし、ヨーロッパへの留学生を派遣する。しかし当時は幕府によって海外渡航が禁じられていたため、それは密航という形を取らざるを得なかった。長州藩からその内命を受けたのは、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助、そしてわずか半年前には英国公使館焼き討ち事件に加わっていた伊藤博文と井上馨の5名。彼らは18635月に横浜を出港し、11月にロンドンに到着した。この5人の留学生はUCL(ロンドン大学ユニバーシティー・カレッジ)で様々な学問に接した。しかし翌18644月現地で、急進的な攘夷派の長州藩に対して列強4カ国が攻撃を準備していることを知った5人は、伊藤と井上馨を帰国させることにした。2人は帰国後、列強と戦うことの無謀さを藩に説得したものの失敗し、18648月の下関戦争で長州藩は惨敗。これによって同藩は、攘夷から開国へと姿勢を転換していくことになる。遠藤は慶応2年(1866年)、井上と山尾は明治元年に帰国した。

UCLは日本の近代化に大きな影響を与えた。人種や宗教といった入学制限がなかったことから、幕末から明治維新にかけて、長州や薩摩藩からなど多くの日本人留学生がUCLで学び、明治政府の設立・発展に貢献した。UCLのメインキャンパス内の中庭には、当時の留学生の氏名を日本語で記した記念碑があり、その筆頭に伊藤博文の名前がある。さらに、夏目漱石が明治政府から派遣されてきたのもUCLであり、元首相の小泉純一郎もUCLに留学している。小泉は父が急死したため学位未取得のまま帰国したが、後年名誉学位を授与された。なお、小泉は亡父の跡を継ぎ、帰国後衆議院議員総選挙に自由民主党公認で立候補したがこの時は落選した。

 

⑦ 1865年幕府によるロシア留学

駐日ロシア領事ヨシフ・ゴシケーヴィチは幕府にロシアへ留学生を送ることを提案していた。1865年(慶応元年)、幕府は遣露留学生を送ることを決定し、市川文吉(18歳)、山内作左衛門(29歳)・緒方城次郎(緒方洪庵の3男・21歳)・大築彦五郎(15歳)・田中二郎(14歳)・小沢清次郎(12歳)の6名を選び、この中で家格が一番高い市川文吉が留学生の組頭となった。7月28日、箱館からロシア軍艦ボカテール号に乗船し出発し、長崎・香港・ケープタウン・セントヘレナ島・プリマスを経て、フランスのシェルブールに入港。そこから鉄道でパリ、ベルリンを経由してペテルブルグへ行き、翌年216日に到着した。同年夏には、イギリス留学中の薩摩藩士・森有礼と松村淳蔵がペテルブルグを訪問、市川文吉ら留学生と交流している。

1867年(慶応3年)に山内が病気を理由に帰国、その他の留学生も幕府崩壊に伴い4名が帰国。市川はロシアに残った(1873年(明治6年)9月に帰国)。

留学生はロシアがヨーロッパの後進国であり、ロシア語の習得が困難にもかかわらずその効用が少ないことに失望している。山内は帰国前に、帰国したら英学を始めたいと両親に手紙を出している。一方で一行の半数は年齢が若すぎたこともあり、講義を聴いて理解するほどロシア語の力がついていなかったこともある。かくしてロシアへの留学生派遣はほとんど実を結ぶことはなかった。

 

⑧ 1865年薩摩藩遣英使節団

18638月の薩英戦争で敗北した薩摩藩は、講和交渉で英国に留学生を派遣することを提案した。これには英国側も驚くが、戦った相手から学ぼうとする姿勢を評価し、薩摩藩と英国は急速に懇親を深めることになる。薩摩藩は3名の視察員(五代友厚他)と15名の留学生を決定した。彼らは18653月にトーマス・グラバーの持ち船であるオースタライエン号で密航出国し、5月にロンドンに到着。15名の留学生のうち、大学入学年齢に達していなかった長沢鼎のみ中学校へ入学し、そのほかの14名は長州藩の留学生と同じくUCL の聴講生となる。一方、3人の視察員はヨーロッパ各地を回って国情の視察や商談を行った。聴講生となった14名はロンドンに着いて間もなく、既に同大学で学んでいた長州藩の3名――山尾、遠藤、井上勝と出会い、勉学の合間にお互い交歓を重ねた。薩長は「禁門の変」(1864年)以来、仇敵の間柄であったが、薩長同盟が結ばれるより前に、遠く離れたロンドンに於いては、既に藩の枠を超えて日本人という一つの国家の国民としての意識が目覚めていた。

 

⑨ 1866年遣露使節団 

文久2(1862)年の遣欧使節は、ロシアとの間で樺太の国境画定交渉を試みたが失敗。その後ロシア人の南下が進んだため、箱館奉行兼外国奉行小出大和守と目付石川駿河守以下14名が慶応2(1866)年ペテルブルグに派遣され、国境交渉をおこなった。この時も画定交渉は成功せず、結局翌年2月、カラフトを両国雑居地とするカラフト仮規則が締結された。

 

その後、1867年4月から11月までのパリ万国博覧会へは幕府、薩摩藩、佐賀藩が参加するなどあり、海外交流は深まっていった。その後の最大の派遣は明治政府による107名の岩倉使節団の派遣である。

 

⑩ 1871年~73年岩倉使節団   

岩倉使節団は1871年(明治4年)11月に横浜を出航し、米、英、仏、ベルギー、オランダ、ドイツなど13か国を約10カ月かけて視察した。産業革命後で近代化真っ只中の西洋諸国の政治、軍事、産業、文化、生活などあらゆるものを見聞し、情報を収集して持ち帰った。開国後の日本は早急な近代国家への脱皮を迫られる中で、明治新政府の政府首脳陣や留学生を含む総勢107名という大使節団を送った、この大いなる意欲と決断には、現代から見れば驚嘆すべきものがある。それほどに先進文明を急速に吸収する必要があったからだ。

岩倉具視を特命全権大使,大久保利通・木戸孝允・伊藤博文・山口尚芳を副使とし,政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された。

使節団の目的は、(1)幕末条約締盟国への国書の捧呈、(2)条約改正予備交渉、(3)米欧各国の制度・文物の調査研究であったが、(2)には失敗、もっぱら(3)に専心した。

明治4年(1871年)1112(旧暦)に米国太平洋郵船会社の蒸気客船アメリカ号で横浜港を出発しサンフランシスコに到着。その後アメリカ大陸を列車*で横断しワシントンD.C.を訪問したが、アメリカには約8か月もの長期滞在となる。その後大西洋を渡り、ヨーロッパ各国を歴訪した。ヨーロッパでの訪問国は、イギリス(4か月)、フランス(2か月)、ベルギー・オランダ・ドイツ(3週間)、ロシア(2週間)、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア(ウィーン万国博覧会を視察)、スイスの12か国に上る。帰途はフランス郵便会社のアヴァ号で地中海からスエズ運河(1869開通)を通過し、紅海を経てアジア各地にあるヨーロッパ諸国の植民地(セイロン、シンガポール、サイゴン、香港、上海等)への訪問も行われた。上海からは米国太平洋郵船会社のゴールデンエイジ号で、当初の予定から大幅に遅れ、出発から110か月後の明治61873年)913に横浜港に帰着した。なお留守政府では朝鮮出兵を巡る征韓論が争われ、使節帰国後に明治六年政変となった。そのため大久保は政変対応のため5月、木戸は7月、先に帰国した。

一国の政府のトップがこぞって国を離れ長期間外遊するというのは極めて異例なことであったが、直に西洋文明や思想に触れ、しかも多くの国情を比較体験する機会を得たことが彼らに与えた影響は大きかった。また同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍し、日本の文明開化に大きく貢献した。しかし一方では権限を越えて条約改正交渉を行おうとしたことによる留守政府との摩擦、外遊期間の大幅な延長、木戸と大久保の不仲などの政治的な問題を引き起こし、当時「条約は結び損い金は捨て 世間へ大使何と岩倉(世間に対し何と言い訳)」と狂歌に歌われもした。

 

         * サンフランシスコからワシントンまで5000キロの大陸横断鉄道を旅して仰天している。

                その時日本では鉄道はまだ開設されておらず、初の鉄道路線新橋~横浜間29キロは

                その翌年の明治59月に開業した。

         * 使節団のほとんどは断髪・洋装だったが、岩倉は髷(まげ)と和服という姿で渡航し

                た。この姿はアメリカの新聞の挿絵にも残っている。日本の文化に対して誇りを

                持っ たためだが、アメリカに留学していた岩倉の子岩倉具定らに「未開の国

                と侮りを受ける」と説得され、シカゴで断髪。以後は洋装に改めた。

  

 

その後も、派遣留学生は年を追って増え続け、1872(明治5)年の調べによると、当時、米・英・仏・独・露・蘭・清の7ヵ国合わせて380名余りいたという

                               

                                  

 

 

1863年第2回遣欧使節団

 

 1871年~73年岩倉使節団

左から木戸孝允(桂小五郎)、山口尚芳岩倉具視

伊藤博文大久保利通

 

 

  

                                                                                                                                                                         以   上