参考:「列強の日本への進出状況」   

 

鎖国体制下の日本に諸外国船の進出が激しくなり、とりわけロシアのラクスマン、レザノフの来航、英国のフェートン号長崎侵入事件などによって江戸幕府も海防積極論に傾き始め、国をあげて海防問題が論議されるようになった。

以下に主な列強の進出状況を記す。

 

1792年アダム・キリロヴィチ・ラクスマン来航

北部沿海州ギジガ守備隊長。ロシア最初の遣日使節。女帝エカテリーナ2世の命により日本人漂流民大黒屋光太夫らを伴って、オホーツクから10月、根室へ来航。越冬の後、松前で江戸から来た幕府目付石川忠房らに漂流民を引渡すとともに通商交易を要求したが拒否された。通商を望むならば長崎に廻航することを指示され長崎入港の特許状を与えられたが、7月、長崎へは向わずオホーツクへ帰国した。持ち帰った長崎入港許可書はレザノフ来航のきっかけとなった。

 

1804年(文化元年)ニコライ・ペトロヴィチ・レザノフ来航と「文化の露寇」

ロシアの事業家、外交官。極東及びアメリカ大陸への進出に関わり、ロシアによるアラスカおよびカリフォルニアの植民地化を推進した。アダム・ラクスマンに続く第2次遣日使節として来日。ロシア皇帝アレクサンドル1世の親書と長崎入港許可書を携え、国交樹立のために、日本人漂流民の津太夫らを伴って来日した。彼等はロシア初の世界一周航海艦隊に乗り組み、ペテルブルクから出航、南米回りで太平洋を航海してカムチャツカ経由長崎に来航した。半年間ほど長崎にて通商を求めたが、拒絶された。18054月に長崎を去り、カムチャツカへ向かった。レザノフは、日本には武力を以て開国をさせるしかないとして、部下のフボストフに樺太・択捉などの蝦夷地周辺への攻撃を命じ、いわゆる1806~07年(文化3~4年)の「文化の露寇」となった。

 

1808年フェートン号事件

180810月、長崎港で起きたイギリス軍艦侵入事件。フランス革命戦争*後、1793年にオランダはフランスに占領され、世界各地にあったオランダの植民地はすべてフランス革命政権の影響下に置かれていた。当時アジアの制海権は既にイギリスが握っていて、180810月にオランダ船拿捕を目的とするイギリス海軍のフリゲート艦フェートン号はオランダ国旗を掲げて長崎へ入港した。これを蘭船と誤認して、長崎奉行所役人・通詞らとともに出向いたオランダ商館員の2人が捕らえられた。フェートン号は長崎港内を探索した後、捕らえたオランダ人を人質として、薪水・食糧を強要し、供給がない場合は港内の和船を焼き払うと脅迫してきた。幕府長崎奉行松平康英はやむなく要求をいれて、燃料・食糧を供給することと引替えに拘束された人員を釈放返還させ、フェートン号は退去して事なきを得た。

当時、長崎警固の任にあたっていた佐賀藩兵は1000余名のところ、実在100余名にすぎず、日本側は施す策もないまま同艦を立ち去らせてしまい、その夜、松平康英は国威を辱めたとして切腹自殺した。幕府は、鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたとして、藩主鍋島斉直に100日の逼塞を命じた。このほか長崎番所番頭など2名は切腹を命ぜられた。

この事件は幕府に深刻な衝撃を与え、その後もイギリス船の出現が相次ぎ、1825年に異国船打払令を発令することになる。

この屈辱を味わった鍋島藩は次代鍋島直正の下で近代化に尽力し、明治維新の際には大きな力を持つに至った。また、この事件以降、知識人の間で英国は危険な国「英夷」であると見なされ、組織的な研究対象となり、幕府は1809年に6名の長崎通詞に英学修業を命じ、それに続いてオランダ語通詞全員に英語とロシア語の研修を命じている。

 

        *フランス革命戦争:フランス革命後のフランス革命政権と革命政権を打倒しよう

                        とするヨーロッパ諸国の間に生じた戦争。1792年ころから99年まで続き、

                        それ以降はナポレオン戦争に引き継がれた。

 

1825年異国船打払令

1825年(文政82月、江戸幕府が清とオランダ以外の外国船をすべて撃退することを諸大名に命じた。

幕府は通商を禁じた外国船が漂着した場合には薪水を与えて帰国させる方針であったが、1808年のフェートン号事件以来、イギリス船に対する警戒を強めていた。加えて、イギリスとアメリカの捕鯨船が日本の近海に頻繁に出没し始め、1824年には常陸(茨城県)、薩摩などで上陸するという事態も起こった。鎖国体制をあくまでも維持しようとする幕府は、諸外国の要求を力づくで排除しようとした。

 

1837年モリソン号事件

広東のアメリカ貿易商社オリファント社所属のモリソン号が1837(天保8) 6月、日本人漂流民7人の送還を兼ねて対日貿易の開始を求めて浦賀へ来航し、異国船打払令に従った浦賀奉行の砲撃をうけ、さらに鹿児島湾に入港しようとして砲撃された事件。

このような幕府の対応を批判した渡辺崋山、高野長英を捕らえるなど(蛮社の獄)、内外ともに強圧的な政策がとられた。しかし、1842年(天保13)に阿片戦争*で清がイギリスに敗れて開国を強制させられたことが伝わると、この打払令を廃止した。

 

         *阿片戦争での清朝の敗戦はいち早く幕末の日本にも伝えられ、大きな衝撃をもって迎えら

                       れた。中国は文明国であり大国であるとの認識に日本は立っていたが、中国の弱体化と

                       列強の植民地獲得戦争に、日本は驚きと、恐れを実感した。

 

1842年薪水給与令

1842(天保13)7月、江戸幕府は異国船打払令を撤廃し、来航した外国船には薪水、食料を与え、速やかに退去させることを命じた。モリソン号事件により打払令が国際的紛争を招く危険な政策であること、阿片戦争終結の後、イギリスが日本に艦隊を派遣するとの情報などにより危機感がさらに強まり、対外紛争回避のため対外方針を変更した。しかし、依然として鎖国体制を維持し続けようとした。

 

1844年蘭国王の開国進言

幕府は異国船打払令から薪水給与令に軟化した。こうした形勢を見たオランダ国王ウィレム2世は、この機会に開国を勧告する国書を将軍徳川家慶宛に送った。これにはシーボルトの助言もあったという。オランダの使節は1844年(天保15)長崎に入港し、国王の親書と献上品をもたらした。幕府はこの勧告を謝絶したが、日本近海に出現する欧米船は数を増す一方であった。

 

1846年米国東インド艦隊司令長官ビッドル来航 

初めての米国通商条約交渉使節として浦賀へ来日。望廈条約の批准書交換のため清を訪れた帰途、1846年(弘化3年)に浦賀に来航して開国を求めた。しかし、小型艦2隻のみで、また威圧を避けたため交渉は失敗した。

 

1853年ペリー来航

1853年(嘉永6年)6月、東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが日本開国の使命を受け、サスケハナ号(2,450トン、当時の世界最大級の新鋭艦)を旗艦として蒸気船2隻を含む艦船4隻が江戸湾入口の浦賀に来航した。浦賀奉行に大統領フィルモアの国書を手交し、開国を要求した。しかし翌年までの猶予を求められて退去した。

18542月、ふたたび旗艦サスケハナ号以下軍艦7隻を率いて江戸湾金沢沖に来航し条約締結を求め、3月神奈川で日米和親条約を調印、さらに下田で日米和親条約付録に調印、下田・箱館2港を開き、漂流民保護、欠乏品供給、領事駐在、最恵国待遇などを決めた。

日本人が初めて見た米艦は、それまで来航していたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とはまったく違うものであった。黒塗りの船体の外輪船は、帆以外に外輪と蒸気機関で航行し、煙突からはもうもうと煙を上げていた。日本人は「黒船」と呼んだ。アメリカ独立記念日の祝砲や、号令や合図を目的として、湾内で数十発の空砲を発射した。この件は事前に日本側に通告があったため、町民にその旨のお触れも出てはいたが、最初の砲撃により江戸は大混乱となった。やがて空砲だとわかると、町民は砲撃音が響くたびに、花火の感覚で喜んだと伝えられている。浦賀は見物人でいっぱいになり、勝手に小船で近くまで繰り出し、上船して接触を試みるものもあったが、幕府から十分に警戒するようにとのお触れが出ると、実弾砲撃の噂とともに、次第に不安が広がるようになった。「太平の 眠りを覚ます 上喜撰* たったしはいで 夜も眠れず」は日本の慌てぶりを表した川柳。

吉田松陰は、ペリーの浦賀来航時に、師の佐久間象山と黒船を遠望観察し、西洋の先進文明に心を打たれ、留学を決意する。翌年1854年にペリーが再航した際に、旗艦ポーハタン号に乗り込んだが渡航は拒否され、国許蟄居となった。

 

                上喜撰:宇治の高級茶   

 

1853年プチャーチン来航

ロシアの海軍提督。ロシアの第3回遣日全権使節に任命され18538月(嘉永6年)、ペリーに遅れること1ヵ月半後に、旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊を率いて長崎に来航した。ロシア皇帝の国書を手交し、千島・樺太の測量と開国通商を求めたが調わず。クリミア戦争の勃発により翌年1月、一時上海に退いたが、その後プチャーチンはディアナ号単艦で再び日本に向かい、下田へ回航するよう要請を受けて、123日(嘉永7年)に下田に入港した。幕府は川路聖謨、筒井政憲らを下田へ派遣、プチャーチンとの交渉を行わせた。下田滞在中の18541223日(嘉永7114日)、安政東海地震が発生しディアナ号も津波により大破し、乗組員にも死傷者が出たため、交渉は中断。プチャーチンは艦の修理を幕府に要請、交渉の結果、伊豆の戸田村がその修理地と決定し、ディアナ号は応急修理をすると戸田港へ向かった。しかしその途中、宮島村(現富士市)付近でディアナ号は沈没。乗組員は周囲の村人の救助もあり無事だった。プチャーチン一行は戸田に滞在し、幕府から代わりの船の建造の許可を得て、ディアナ号にあった他の船の設計図を元にロシア人指導の下、日本の船大工により代船の建造が開始された。これがわが国での西洋型船建造の始まりである。

中断されていた外交交渉が再開され、1855年2月(安政元年)、下田で日露和親条約を締結、樺太は両国の共有地と定められた。

プチャーチンはその後18588月(安政5年)、再び日本に向かい、芝愛宕下の真福寺 (東京都港区)において幕府側と交渉を行い、日露修好通商条約を締結した。翌日、江戸城で将軍家世子徳川慶福(家茂)に謁見した後、本国に帰国した。

 

1854年、米国に続き英と和親条約を締結 

1858年、日米英仏露蘭修好通商条約締結(安政の五か国条約)。

 

幕府大老井伊直弼がその職責のもとに調印したが、攘夷派の公家たちが優勢だった当時の京都朝廷は、勅許を待たずに調印した条約は無効だとしてこれを認めず、幕府と井伊の「独断専行」を厳しく非難した。その結果、朝廷と幕府間の緊張がいっきに高まり、これが安政の大獄や桜田門外の変などの引き金になった。

 

1861年ロシア軍艦対馬占領事件

ロシア軍艦が半年間対馬芋崎を占拠した事件。1861(文久元)2月、ロシア軍艦ポサドニック号が船体修理を理由に対馬浅茅湾の尾崎に停泊、付近を測量し、3月芋崎に永住施設を建設して居座った。対馬藩の抗議に対し艦長ビリリョフは芋崎付近の租借権を強請、藩民との紛争も絶えなかった。

7月イギリス公使オールコックとイギリス海軍中将ホープが幕府に対し、イギリス艦隊の圧力によるロシア軍艦退去を提案。イギリス東洋艦隊の軍艦2隻が対馬に回航し示威行動を行い、ホープ中将はロシア側に対して厳重抗議した。しかしこの時点においてオールコックも、イギリスによる対馬占領を本国政府に提案していた。また老中安藤信正は、ロシア領事館開設の地である箱館の箱館奉行村垣範正に命じてロシア領事に抗議を行わせた。これまでビリリョフの行動をそのままにさせていたロシア領事ゴシケーヴィチは、イギリスの干渉を見て形勢不利と察し、軍艦ヲフルチニックを対馬に急派し、ビリリョフを説得。文久元年8月、ポサドニック号は対馬から退去した。

 

1863年薩英戦争

1863(文久3)薩摩藩とイギリス艦隊との間で行われた戦争。1862年生麦事件(8月、生麦村(現・横浜市鶴見区生麦)で島津久光の行列を乱したイギリス人を薩摩藩士が殺傷した事件)に関し、イギリス代理公使ニールは幕府に対しては公式謝罪状と償金10万ポンドを、薩摩藩には犯人の処刑と償金25000ポンドを要求した。幕府はこれに応じたが,薩摩藩は応じなかった。そこでイギリスは翌年6月、艦隊7隻をもって鹿児島湾に侵入して薩摩藩と交渉を始めたが進展がなく、市街を報復砲撃し多大な損害を発生させた。イギリス側は暴風による損害や、武器、食糧の不足もあり、勝敗が決しないまま退去した。薩摩藩は近代的軍事力の威力を知って、これを機に攘夷論から積極的開国論に藩論を転換していく。

 

1864年下関戦争

 1862年(文久2年)、将軍・徳川家茂は孝明天皇の妹・和宮と結婚、公武合体を進めた。翌年の文久3年、家茂は朝廷の求めに応じて、3代将軍家光以来の上洛をした。孝明天皇は家茂に攘夷の沙汰を申しつけ、家茂は文久3510日をもって攘夷実行を約束し、諸藩にも通達した。

長州藩は朝命を実行すべく、1863年(文久3年)5月、下関海峡で外国船を砲撃した。体制を整えたイギリス、フランス、アメリカ、オランダの4国連合艦隊が1864(元治元年)8月、下関の砲台を攻撃、占領した。戦後、長州藩は幕命に従ったのみと主張したため、米英仏蘭に対する損害賠償責任は徳川幕府のみが負うこととなった。長州藩の尊王攘夷派は攘夷の非を悟り、倒幕開国へ転じた。

 

以降、1867年大政奉還、1868年王政復古、戊辰戦争へと続く。

 

                                                                   以  上