参考「日本・朝鮮・琉球の対中国王朝との冊封国・朝貢国としての位置とその歴史」    

 

日本は中国の冊封国としての期間は短いので、それに加えて、日本と中国、朝鮮、琉球の関係史をも合わせてレポートする。

 

           目  次

                  1、朝貢と冊封国について      

                  2、中国の冊封国・朝貢国としての日本     

                  3、中国の冊封国としての琉球     

                  4、中国の冊封国としての朝鮮

 

1.朝貢と冊封国について

中国には古来、中華思想により中国は宗主国、諸外国は藩属国とみなされ、諸外国の君長が貢物をさし出す「朝貢」 と、皇帝が回賜を与えて国王に任命し、その統治を認める「冊封体制」への組み込みがあった。冊封国にも序列があり、中国王朝から下賜される印綬や冊封使の品階などで区別された。印綬は地位に応じ玉印・金印・銀印・銅印などが与えられた。

 

2.中国の冊封国・朝貢国としての日本

日本が中国王朝の冊封国であった期間は短い。それは弥生時代から古墳時代(大和時代)までの、紀元前1世紀頃から紀元後5世紀末までの期間と、室町時代の一時期が中国王朝の冊封国であった。

古代の歴史には諸説あるため、中国正史の記述を基にして、中国王朝との歴史を振り返ってみよう。古くは弥生時代から中国との交流は始まっていた。

 

〇 弥生時代(紀元前6‐5世紀頃~紀元後34世紀頃)

中国の正史に初めて倭国の記述が見られるのは「漢書*・地理志」の中である。それによれば、紀元前1世紀ごろの倭*は100国あまりの小国分立の状態であり、朝鮮半島にあった楽浪郡*に使者を定期的に派遣して貢物を献上していたとある。貢物をしていたのは倭の中のどの国かは記されていない。

 

歴代中国王朝は、秦、漢(前漢・後漢)、三国(魏・蜀・呉)、晋、南北朝、随、唐、五代十国、宋(北宋・南宋)、元、明、清。

               

* 漢書:中国王朝の正史(二十四史)の一つ。前漢のことを記した歴史書。

* 倭(わ):紀元前から中国各王朝が日本列島を中心とする地域およびその住人を指す際に用いた呼称。倭国の中に奴(な)国などがある。7世紀頃に国号を「日本」に変更するまで、日本列島の政治勢力自身も倭もしくは倭国と自称した。倭の住人を倭人という。和、俀とも記す。

* 楽浪郡(らくろうぐん):紀元前108年、前漢武帝が朝鮮半島西部にあった衛氏朝鮮を滅ぼして、楽浪郡に朝鮮半島支配の地方行政機構を設置した。東方における中華文明の出先機関であり、朝鮮や日本の中華文明吸収に大きな役割を果たした。313年、高句麗に滅ぼされる。

 

また後の「後漢書*・東夷伝」には、12世紀ごろ(弥生時代)の倭の様子を記している。当時倭国には統一国家は存在せず、多くの国が割拠していた。当時は30国ほどが後漢へ使節を送っていたが、西暦57年、後漢初代皇帝光武帝によりそれらの国の中の一つ、倭の奴国の王が倭奴国王に冊封され金印を受けている。それが、志賀島(博多湾の北部)から発見された「漢委奴國王」と刻まれた倭奴国王印(国宝)だとされる。倭奴国は今の博多付近の国の一つと考えられている。

また、107年には倭の国王である帥升*らが160人の奴隷を後漢の第六代皇帝安帝に献上した。これらは、後漢と冊封関係にあった小国が、九州北部に存在したことを示している。金印を授けた倭奴国との関係は不明。

 

* 後漢書:中国王朝の正史(二十四史)の一つ

* 帥升(すいしょう):生没年不詳。弥生時代後期の倭国(まだ統一国家ではない国々の一つ)の有力な王と推測される。日本史上、外国史書に名の残る最初の人物である。

 

 中国正史(二十四史)とは中国の王朝の正史24書のことである。伝説上の帝王「黄帝」から明滅亡の1644年までの歴史。

「史記」、「漢書」、「後漢書」、「三国志」、「晋書」、「宋書」、「南斉書」、「梁書」、「陳書」、「魏書」、「北斉書」、「周書」、「隋書」、「南史」、「北史」、「旧唐書」、「新唐書」、「旧五代史」、「新五代史」、「宋史」、「遼史」、「金史」、「元史」、「明史」、以上の24書。

 

〇 古墳時代(3世紀中頃~7世紀末頃)

3世紀末に書かれた「三国志*・魏志倭人伝*」によると、帯方郡*の海の向こうの倭は、2世紀の終り頃には内紛状態にあり、諸国は邪馬台国の女王・卑弥呼を王に共立した。卑弥呼(生年不明~247年頃)は女王になると祭政一致で国を治めた。239年には卑弥呼が、後漢の滅んだあとの三国時代の魏に帯方郡を経て洛陽に朝貢し、「親魏倭王」の称号と金印紫綬、銅鏡、大刀などの王位の象微物を授かっている。卑弥呼が死んだ後*、国は再び乱れたが卑弥呼の親族の13歳の壱与を女王にして平安を保った、などと記されている。266年には壱与が晋に使いを送っている。

 

* 三国志:中国正史(二十四史*)の一つ。220年~ 280年の魏・蜀・呉三国鼎立時代の60年間を書いたもの。

* 魏志倭人伝:『三国志』の中の「魏書」東夷伝倭人条の略称。当時、日本列島にいた倭人の習俗や地理などについて2000字に亘りかなり細かく書かれている。

* 帯方郡(たいほうぐん):204年、楽浪郡から分離して帯方郡として設置され、313年までの109年間、後漢から魏、西晋の時代にかけ、軍事・政治・経済の拠点であった。直轄となった魏朝以降には華北の中国文化の窓口としても重要な役割を果たした。

* 卑弥呼没:卑弥呼は247年頃に没したが、この頃から巨大な前方後円墳が作られ始め、古墳時代となる。魏志倭人伝には、「卑弥呼以死 大作冢(墓) 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人」 とある。なお、卑弥呼の墓は現在も特定できていない。

 

  ヤマト政権は、3世紀中頃には畿内を中心とした連合国家として成立し、 4世紀中ごろまでには畿内、中部地方から西日本にいたる国土を統一していた。しかし、邪馬台国が発展してヤマト政権になったのか、邪馬台国を倒した勢力がヤマト政権になったのかは今だに結論が出ていない。中国の史書には266年(壱与が晋へ朝貢)~413年(倭の五王・讃が東晋へ朝貢)の約150年間に亘り、倭に関する記述がない。その空白時代は、ヤマト政権による統一国家への途上であったと思われる。

 

ヤマト政権は九州への勢力拡張時には朝鮮半島へも進出している。現代よりも当時はもっと朝鮮半島は近い存在だったようだ。朝鮮半島では高句麗、百済、新羅の3国に加え南部の弁韓地方は小国家が分立していた。3世紀末に編纂された魏志倭人伝には、

「從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里 始度一海 千餘里 至對海國」

「(帯方)郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、乍南乍東、その(倭から見て)北岸、狗邪韓国に到る。七千余里。始めて一海を度る。千余里。対海(対馬)国に至る。」とある。従って、狗邪韓国は海を越えて対馬に至る手前の、半島南端にあることになる。また、「三国志・魏書・東夷伝韓条」には、

「韓在帯方之南 東西以海為限 南與倭接」

「韓は帯方郡の南にあって、東西は海をもって限となし、南は倭と接す」とあり、朝鮮半島において南は海ではなく韓と倭は接していると記している。以上からも狗邪韓国は倭の一部であることになる。

ヤマト政権は369年百済からの要請で出兵し、新羅を攻め、百済を従属させて、弁韓地方を平定した。ヤマト政権は加羅の地域を任那と呼んで支配した。垂仁天皇(11代)*の時である。任那はその後562年に新羅によって滅ばされる。以上からも朝鮮半島に倭国の勢力が及んでいたことは間違いない。

 

*天皇:40代天武天皇(673686年在位)は「日本」という国名を使い始め、「天皇」とも称した最初の天皇である。天武天皇が皇子らに編纂を命じ、720年に成立したのが日本書紀(日本最初の勅撰歴史書)である。それには、溯って初代・神武天皇から「大王(おほきみ)」を改め「天皇」号が使われている。日本書紀巻第三に「神日本磐余天皇 神武天皇」とある。

 

4世紀中頃にはヤマト政権が東北以北を除くほぼ全国を統一した。中国の史書に記述が再び現れるのは413年倭王(ヤマト政権)讃の朝貢である。倭の五王*(讃・珍・済・興・武の5人)により502年にかけて十数回の遣使が行なわれ、南朝の宋に朝貢していたことが「宋書*・倭国伝」に記してある。宋書・倭国伝の記述にも任那という記述が見られ、倭王・済(451年)が南朝宋から任那という語を含む号を認められている。478年、倭王・武は南朝宋順帝より「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の号を授けられている。(宋書・順帝紀)

この時代、倭は日本列島と朝鮮半島南部の支配者として公式に認知されていた時期であり、この時代まで日本(倭)は中国とは冊封関係にあった。

ヤマト政権については卑弥呼を源流とする説や、まったく別の大王(おほきみ)を源とする説などがある。現在では、実在した大王は崇神天皇(10代)と云われている。また、宋書に記してある倭の五王では3番目からの、済は19代允恭天皇、興は20代安康天皇、武は21代雄略天皇とされている。従って、ヤマト政権における崇神天皇の頃から倭の五王を経て、現在の天皇家に至る皇統が始まり、続いている。なお今日の皇統の確実な始まりは、6世紀の欽明天皇(29代)からとの説もある。

5世紀には日本において漢字の使用が普及していった。6世紀になると、百済から五経博士が渡来して儒教や仏教がこの頃に伝わる。

589年に隋が南北朝時代を終わらせると、朝鮮半島経由の間接受容から中華文化の直接受容をするようになり、遣隋使と遣唐使の時代へ入る。倭の五王の最後の武による南朝の宋、その後の南斉、梁への朝貢(502年)の後は、約100年を経て607年、遣隋使として朝貢が再開された。 この頃から倭(ヤマト政権)は冊封国体制から離れ、朝貢だけによる関係維持を目的としていた。

 

* 倭の五王:「讃」は仁徳天皇、「珍」は反正天皇、「済」は19代允恭天皇、「興」は20代安康天皇、「武」は21代雄略天皇、等の諸説があるが、このうち「済」、「興」、「武」については研究者間でほぼ意見の一致を見ている。

* 宋書:南北朝宋の正史、420年から589年の隋による統一まで

 

なお、現在の歴史区分は、縄文時代、弥生時代、古墳時代(3世紀中頃~7世紀末頃)、飛鳥時代(592年推古天皇即位~710年平城京へ遷都)、奈良時代(710年~794年平安京へ遷都)、平安時代(794年~1185年鎌倉幕府の成立)と区分されている。 

以前は大和時代と言われた時代区分があったが、その後の研究による近年の時代区分ではそれはなく、3世紀半ばから始まる「古墳時代」と「飛鳥時代」に含まれており、その時代の政権を今では「ヤマト政権」と呼んでいる。なお、古墳そのものは7世紀まで造られている。

ヤマト政権の時代変遷には諸説あるが、弥生時代末期に、大王(おほきみ)とよばれる首長を盟主とする諸豪族の連合政権が成立し、それをヤマト政権と呼ぶ。大王を頂点とする身分秩序・徴税体系を整え、国造制によって地方組織を支配し、6世紀末からは政権とよぶにふさわしい内容を整えた。その後、大化の改新(645646年)を契機として律令制的中央集権国家へと変革が進むが、権力闘争が続いたのち、天武天皇(40673686が権力を握り、天武天皇とその後継者により「律令国家」として、天皇による皇親政治が始まった。これにより「ヤマト政権」体制は終わった。

 

〇 飛鳥時代(6世紀末~710年) 

遣隋使の目的は、東アジアの中心国・先進国である隋の文化の摂取が主であった。600年に倭国王多利思北孤(推古天皇説あり)が遣隋使を派遣したと「隋書・東夷俀國」には記されているが、「日本書紀」にはこれに関する記述はない。第1回遣隋使派遣の600年(推古8年)から、隋が滅ぶ618年の18年間に5回(諸説あり)派遣されている。有名な小野妹子の遣隋使節派遣は607年である。持参した国書に、隋の皇帝煬帝が激怒したことで有名な 「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」との文言がある。『隋書』には国書を持参した者の名前の記載はなく、ただ使者とあるのみであるが、使者は小野妹子(男性)とされる。これは、当時台頭し始めた俀國(隋書では倭国にこの字を充てている)なりの大国意識に基づく、冊封体制への明確な忌避の表明と見られる。 

度重なる高句麗遠征に失敗した煬帝が618年に殺害されて隋は37年間で幕を閉じ唐へと移る。

唐の第2代皇帝の太宗(李世民)によって「貞観の治」(627年~649年)が訪れ、中国史上最も良く国内が治まった時代と言われ、後世、政治的な理想時代とされた。 

推古天皇の摂政聖徳太子時代の遣隋使に続き、遣唐使の派遣は630年の第1回から、白村江の戦い(663年)などによる唐・新羅との関係悪化から幾度か中断されながら、16回(諸説あり)派遣されている。875年の黄巣の乱以降、唐は実質的に崩壊したため、894年に菅原道真の建議により中止された。

遣唐使の時代には日本の天皇は唐王朝から冊封を受けていない。632年に唐からは高表仁が来朝、冊封関係を要求したが朝廷はそれを拒否している。また、唐に対しては天皇号を使用しており、中国の皇帝と対等であるとしているが、唐の側の記録においては日本を対等の国家として扱ったという記述は存在しない。 

この時期の倭国もまた東アジア世界の一員であり、冊封体制の外にあっても、主に政治制度の確立という点で中国王朝からの影響は大きかった。608年の遣隋使派遣に参加した者たちの帰国が632年から640年に実現し、その内の僧旻や高向玄理は中大兄皇子(後の天智天皇)の政治顧問として645年からの大化の改新に貢献した。

 

倭国と朝鮮半島との往来は、百済王朝の頃からより盛んになった。百済最後の国王義慈王は倭国と同盟し、その王子豊璋王と禅広王(善光王)を人質として倭国に送った。一方で唐は新羅と結び、百済は660年に唐・新羅に滅ぼされたが、唐軍の主力が帰国すると百済遺臣の反乱を抑え切れなかった。また百済滅亡を知った倭国でも、百済復興を支援することを決定し、倭国に人質として滞在していた百済王子・豊璋を急遽帰国させるとともに阿倍比羅夫らからなる救援軍を派遣した。やがて唐本国から増援軍が到着し、唐・新羅連合軍は663年に倭国・百済遺民の連合軍と白村江で決戦に及んだ(663年白村江の戦い)。これに大敗した倭国は、各地を転戦する軍を集結させ、亡命を希望する百済貴族を伴って帰国させた。豊璋は唐に捕らえられ流刑となったため、日本に残った禅光王が百済王族の血統を伝えることとなった。日本において禅光を始祖とする日本の氏族となり、持統天皇に百済王の氏姓を賜与された。平安時代初期には、桓武天皇の母(高野新笠)が百済系渡来氏族の和氏出身であったため天皇の外戚とみなされ厚遇を受けた。

 

668年には唐・新羅連合軍は高句麗を滅ぼした。その後新羅は唐の勢力を退け、半島を統一した。

 

白村江の戦い以後、倭国と唐・新羅との関係が悪化し、朝廷は九州防備のため北九州に防人、大宰府に防人司を設置する。この敗戦により倭国は領土こそ取られなかったものの、朝鮮半島での権益を失い、国防体制・政治体制の変革を余儀なくされた。急速に国家体制が整備され、律令国家の建設が急ピッチで進み、倭国は「日本」へと国号を変えた。

「旧唐書・東夷伝」の中に、「倭国伝」と「日本国伝」の2つが並立して日本列島について書かれている。しかし「旧唐書」は唐末・五代の戦乱の影響で、史料不足による不備が大きかったため、宋代になってその欠を補い「新唐書」が書かれた。その「新唐書」では、日本列島を明解に一つの「日本伝」として日本を書いている。その日本伝の中に、唐の太宗治世の貞観5年(631年)に「日本」から入貢したと書かれている。従って日本は7世紀前半には「日本」を名乗り、中国でも「日本」を使い始めていたことになる。

朝鮮においては朝鮮の史書である「三国史記」(朝鮮半島に現存する最古の歴史書、12世紀に高麗にて編纂)の「新羅本紀」文武王1012月(6711月)の条に、「倭国、号を日本に更む。自ら言う、日出づるに近きを以て名を為す」とある。

 

以上のように中国、朝鮮でも7世紀頃から「日本」という国名が使われ始めていた。

 

それを正式に日本が国として規定化したのは、大宝元年(701年)施行の大宝律令の中に天皇が発する詔書の書式を規定した公式令詔書式にあった。そこには「明神御宇日本天皇」(あきつみかみとあめのしたしらすやまとのすめらみこと)(「日本」を「やまと」と読んでいる)を対外的な詔書に用い、「明神御宇大八州天皇」を国内的な詔書に用いることを規定している。従って701年には対外的にも「日本」と言う国号を国として正式に使い始めていた。

 

白村江の戦(663年)に敗れた倭国では、唐との交流は大宝2年(702年)の遣唐使派遣により唐との関係修復を試み、これも朝貢の形式で行っているが冊封を受けることはなかった。701年、大宝律令の制定以降、日本の律令国家体制が確立していく。多くの留学生・留学僧を唐に派遣し、唐の先進文化を吸収する一方で緊迫した東アジア情勢を把握することも遣唐使派遣の目的になっていく。唐の開元通宝を手本に和同開珎の鋳造が始まる。

 

〇 奈良時代(710年~794年)

  平城京は唐の長安を手本に整備された。阿倍仲麻呂などが717年の遣唐使に随行して唐の文化を日本に持ち帰り、天平文化を開花させた。754年には唐から高僧鑑真が日本に渡り、唐招提寺を建て日本の仏教に大きな役割を果たした。804年の遣唐使派遣で随行した最澄、空海は帰国後に日本的な仏教の基礎を作り上げた。また、この頃になると短期で唐へ留学するものも現れた。遣唐使を通じての日本と唐の関係は非常に密接であったといえる。

 

〇 平安時代(794年~1185年)

  894年菅原道真の建議により遣唐使は廃止された。この頃から朝貢より貿易(密貿易を含む)中心の時代へと変化していった。10世紀の日本は藤原氏北家*による摂関政治が全盛時代を迎えるが、当時の平安貴族の間では白居易の「白氏文集」や「文選」などの中国漢文書籍は必須の教養とされていた。

 

          * 藤原氏:藤原という姓は、中臣鎌足が大化の改新の功により天智天皇から下賜された姓、「藤原」である。奈良時代に南家・北家・式家・京家の四家に分かれ、平安時代には北家が皇室と姻戚関係を結んで摂関政治を行った。

 

中国東北部から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけて存在した渤海への遣渤海使が811年に終わり、渤海からの渤海使も926年に終わると朝廷は対外消極策を採っていく。日本国内では荘園が発達し、地方の乱れが顕著になると武士が頭角を現していった。一方中国大陸では、907年、唐は滅び、群雄が割拠する五代十国時代を迎える。

中国大陸は五代十国時代の後、960年、後周を引き継いで文治主義的な北宋が建国されたが、日本朝廷は大宰府を通しての限定的な交流を続けた。一方で私貿易(=密貿易)が博多や敦賀で行なわれるようになっていた。その貿易に目をつけたのが、平忠盛である。忠盛は瀬戸内海の輸送路を掌握し、舶来品を朝廷に進呈し、近臣として認められるようになっていく。1127年の靖康の変で北宋が滅亡すると、華南地方に南宋ができる。

1156年保元の乱と1159年平治の乱で平氏が台頭すると、平氏は開国的な政策をとって日宋貿易を切り開いた。この頃になると大宰府は衰微しており、平忠盛の子である平清盛は摂津の大輪田泊の修築などを行って、日宋貿易を盛んに推進した。この貿易によって大量の宋銭が日本に流入し、日本は貨幣経済の時代を迎える。また、栄西・道元らの禅宗や茶もこの時期に伝えられた。

平氏の繁栄に反発して源氏が挙兵、平清盛が急死すると平氏は都を追われ、1185年に壇ノ浦の戦いで源氏に敗れる。

 

〇 鎌倉時代(1185年~1333年) 

  平氏滅亡後、源頼朝は1192年、征夷大将軍に就任して鎌倉幕府を開く。頼朝の死後は北条氏が台頭して、執権政治が始まる。

 

13世紀後半、モンゴル帝国は高麗を通して日本に服属を求め、使者を6回送る。当時外交は朝廷の担当であったため、幕府は朝廷に国書を回送した。朝廷は幕府の意向を入れてこれを黙視する。モンゴルは1271年に元として建国。元と高麗の連合軍は1274年、日本に侵攻(文永の役)したが、日本軍の激しい抵抗を受けて撤退を余儀なくされる。 日本側は蒙古再来に備え、九州に防塁を築き防衛力を強化すると同時に、逆に大陸への侵攻を計画したが、この計画は途中で頓挫した(第一次高麗征伐計画*)。

 

*第一次高句麗征伐計画:文永の役で、元・高麗連合軍の侵攻を撃退した鎌倉幕府は1276年(建治2年・至元13年)3月に高麗出兵を行うことを明言し、鎮西諸国などに動員令をかけて博多に軍勢や船舶を集結させた。しかし、突然出兵計画は中止となった。詳細は不明ながら、同時に進められていた石築地の築造に多大な費用と人員を要したことと、兵船の不備不足などの理由により計画は実行されなかったとされている。

 

その後1279年に元は南宋を滅ぼし、華北の漢人・華南の南人とモンゴル民族の差別化を図った。そして、1281年に元は高麗・旧南宋と共に連合軍を組んで日本の再来襲を試みるが(弘安の役)再び失敗に終わる。勝利した鎌倉幕府は、直ちに大陸への逆侵攻を計画したが、この計画も実行されなかった(第二次高麗征伐計画)。朝鮮への征伐出兵はこの頃から普通に考え、計画されている。取りやめになったとはいえ、朝鮮は遠い存在ではなかった。

こうした二度に渡る元寇を受けて鎌倉幕府は1293年に鎮西奉行を九州に設置して、西日本における統制力の強化に乗り出した。一方で、元寇で軍役に就いた御家人への十分な恩賞給与がなされなかったため、御家人の鎌倉幕府に対する不満は高まるばかりであった。

クビライ・カアンは日本侵攻を試みながらも、民間レベルの貿易は認めていたため、民間による私貿易は盛んに行なわれるようになった。加えて鎌倉時代後期には寺社造営費を獲得するため、鎌倉幕府の公認のもと寺社造営料唐船*が派遣されたりもした。

 

*寺社造営料唐船:14世紀前半(鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて)に、主要な寺社の造営費用の獲得を名目として、幕府の認可の下、日本から元に対して派遣された貿易船群のこと。特に建長寺船・天龍寺船などが有名。日中関係史において、元寇による関係悪化(13世紀)と日明貿易(15世紀)の間の時期をつなぐ、半官半民的な交易船であった。

 

権力を握った北条氏は、武士層が信仰した禅宗を保護したため、民間の渡来僧は貿易船に便乗して来日した。

 

後醍醐天皇が即位して1324年に討幕運動を始めるも失敗、隠岐に流されたが脱出して挙兵する。これに足利高氏(尊氏)が味方して幕府の六波羅探題を攻略。その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて鎌倉幕府は1333年に滅亡する。

 

〇 室町時代(13361573年) 

後醍醐天皇は京都に帰還し、天皇親政の建武親政を開始したが、復古的政策は武士階級の反感を買い、足利尊氏が湊川の戦いで後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成を破り、武家政府 (室町幕府)1336年に再開した。後醍醐天皇は吉野に南下して南北朝時代が到来するが、室町幕府3代将軍足利義満により事実上の南朝の解消に成功し、1392年、南北朝時代は終わった。

室町時代の北山文化、東山文化へと隆盛をみる。

 

中国大陸では元の統治能力がすでに失われ、その中で朱元璋は反乱を鎮圧する側に廻り、1368年に自ら皇帝(洪武帝)となって明王朝を開いた。

 

13世紀から16世紀にかけて、日本の海賊である倭寇が朝鮮半島南岸に、次いで中国大陸沿岸の山東から浙江にかけて襲撃するようになった。15世紀までの前期倭寇は瀬戸内海・北九州を本拠とした日本人が多かったが、16世紀の後期倭寇は中国人が主体であった。

 

明朝は1371年に海禁令を発布。海禁は海賊防止と密貿易の取り締まりの二つの機能を兼ね備えた政策であった。また、朝貢貿易*を復活させ、周辺諸国に勘合符を与え、それを所持する船のみに交易を認める勘合貿易を始めた。明朝は1374年に民間貿易を全面的に禁止した。

明は日本に対して倭寇討伐の要請をするため、九州の南朝・征西将軍懐良親王*に使者を派遣する。懐良親王は明からの倭寇鎮圧の要請を機に、北朝に対し自勢力の正統性を主張するため1370年日本国王として冊封を受けている。これは倭の五王時代の冊封時代以来約850年後のことである。しかしその後1401年に第3代将軍の足利義満が使者を明に派遣すると、3代皇帝・永楽帝は1404年に足利将軍を「日本国王」として冊封し、明から日本に対して交付される貿易許可証・勘合符を遣明使船に所持させる勘合貿易が開始された。

日本国内の支配権確立のため、貿易による豊富な資金力を必要としていた義満は、名分を捨て実利を取った。永楽帝は義満を評価しており、その死の翌年に弔問使を日本につかわし「恭献」という諡号*を送っている。日本人で外国から謚号を贈られたのは義満が最初で最後である。

3代皇帝・永楽帝(14021424年)はモンゴルやベトナムに遠征して領土を広げ、大帝国を作り上げた。さらに南方諸国に対して、鄭和の率いる大船団を7度も派遣し、東南アジア、インド洋、ペルシア湾、紅海、アフリカ東海岸までに達する大遠征の結果、多数の国々と明を中心とした朝貢*世界を作り上げた。中国を征服した外来の征服王朝は遼、金、元、清と言われている。モンゴルによる統治の後、明は漢民族として最大級の国家となった。現在中国の一帯一路構想のもととも思える。

 

       *朝貢:歴代中国王朝は、周辺諸国の夷狄(中華の四方に居住する異民族に対する蔑称)たちが、「中国の徳を慕って」朝貢を行い、これに対して回賜を与えるという形式で行われた。朝貢を行う国は貢物を献上し、朝貢を受けた中国王朝は貢物の数倍から数十倍の宝物を下賜するのが慣例であった(厚往薄来)。経済的に見ると、朝貢は受ける側にとって非常に不利な貿易形態ではある。しかし、夷狄から朝貢を受けることは皇帝の徳を示すことと見なされ、内外に向けて政権の正統性を示すことができるので、朝貢には莫大な費用がかかるにもかかわらず歴代中国政権は朝貢を歓迎してきた。多くの国が朝貢して自国の統治を認めてもらう冊封国となったが、日本のように冊封国扱いを離れて朝貢だけとする国もあった。その後朝貢は、国家財政により経費削減へ政策の転換を余儀なくされる。朝貢国は貿易の規模や貢期(入朝頻度)、附搭貨物買取価格を抑制され関税まで徴収された。このため朝貢貿易は衰え、密貿易がさらに拡大していった。   

 *懐良親王:後醍醐天皇の皇子。南朝の征西大将軍として大宰府を占拠し北朝の足利方に対抗。

    南朝唯一の地方勢力として重きをなした。

 *諡号(しごう):帝王などの死後に生前の行いを評して付けられる称号

 

足利義満の代で冊封関係は終わったが、遣明船は1401年から1547年まで19回に渡り交易が行われた。日本からの輸出品は、硫黄・銅などの鉱物、扇子・刀剣・漆器・屏風などであり、輸入品は、永楽通宝・生糸・織物・書物などであった。輸入された織物や書画などは北山文化や東山文化など室町文化に影響を与えた。

次期将軍を巡って1467年からの応仁の乱で守護大名が東西に分裂、地方では農民による土一揆・国一揆・一向一揆などの反乱が頻発した。

 

 1392年、高麗を滅ぼした李成桂は朝鮮建国に伴い、倭寇禁圧を日本に要求、室町幕府の足利義満もそれに応えたので、倭寇(前期倭寇)の活動は急速にやんだ。こうして14世紀末から約1世紀間、日朝貿易が展開された。日本側では対馬の宗氏が幕府に代わってその統制にあたった。しかし、16世紀にはいると朝鮮王朝の貿易統制が強まり、日朝貿易は衰えた。日明、日朝貿易は衰退しても国内需要は大きく、密貿易は盛んとなった。しかし民間の密貿易船は時に略奪をはたらき、中国人の密貿易船や海賊が加わり、再び倭寇による密貿易が盛んになった(後期倭寇)。

日本の戦国時代は1467年の応仁の乱から織田信長による室町幕府滅亡(1573年)までであるが、その混乱の時期に世界は大きく変わっていた。スペインとポルトガルは大航海時代を経て、16世紀には世界中で植民地獲得競争に乗り出し、その波は日本にも及んできた。1543年にポルトガル人により鉄砲が種子島に伝来し、ポルトガルとの南蛮貿易が始まった。中国でもポルトガル人による中国の広東省澳門(マカオ)においてマカオ貿易が開かれ、1555年頃からポルトガルが明から居留権を得て、マカオが中国大陸における唯一のヨーロッパ人居留地となった。

1570年に明が漳州(現福建省南東部)での貿易を公認したことと、日本でも織田信長、豊臣秀吉と国内統一が進むと、倭寇は衰えていった。

 

〇 安土桃山時代(15731603年)

  日本を統一した豊臣秀吉は1587年、バテレン追放令でキリスト教を禁止とするも、ポルトガル商船との南蛮貿易は積極的に続けた。また、秀吉は日本人の海外交易を統制し、倭寇(後期倭寇)を禁圧する必要から、1592年に初めて朱印状を発行して朱印船をマニラ・アユタヤ・パタニになどに派遣した。

秀吉は南蛮貿易の保護、利益の独占をしようとする一方で、近隣諸国に入貢を要求した。1591年ポルトガル領ゴアの総督と、スペイン領フィリピンのルソン総督に、1593年には高山国(台湾)にも国書を送って入貢を求めているが失敗した。これらの国書には入貢しなければ征服すると書かれていたが、実際には秀吉の武力侵攻は最も近い朝鮮と明に向けられた。

秀吉は「征明」を企て、対馬の宗氏を介して明と冊封関係にあった朝鮮に征明への協力を求めたが交渉は決裂したため、1592年に朝鮮半島への侵攻を開始した(文禄の役)。日本軍が平壌へ迫り、明は朝鮮からの要請に応じて、明は平壌を「朝鮮の地であるが、明の領内でもある」として、明軍を派遣、明・朝鮮連合軍と日本軍は幾多の戦いを経て膠着。秀吉は1597年の慶長の役で再び出兵するが、翌年に秀吉が死んで日本側は撤兵する。

 

〇 江戸時代(1603年~1868)

  1600年に豊後に漂着したオランダ船に乗り組んでいたヤン・ヨーステンとウィリアム・アダムスを、家康は貿易・外交顧問として雇い南蛮貿易を積極的に奨励し1604年、朱印船貿易を実施した。以後、1635年までの32年間に356隻の日本船が朱印状を得て海外に渡航した。朱印船は必ず長崎から出航し、帰港するのも長崎であった。なお、明は日本船の来航を禁止していたので、中国は朱印船渡航先とはならず、朝鮮との交易も対馬藩に一任されていたので、朱印状は発行されていない。

明は何度も海禁令の更新を行い、密貿易を厳しく取り締まったため、日本船と明船の商船は明国官憲の監視が及ばない東南アジア諸港へ赴いて彼の地で合流、合法的に朱印状による「出会貿易」をおこなった。加えて、徳川幕府が中国船に朱印状を与えて招致したこともあり、直接長崎への来港中国船は年間70-80隻に及んだ。民間人が多数来日し、九州を中心に唐人町が形成された。朱印船主は島津家久ほか西国大名や幕臣、豪商、在留外国人など100名以上に及んだ。徳川家康から徳川秀忠の時代にかけては、江戸幕府は明との国交回復及び勘合貿易の再開を求めたが、明に断られている

東南アジア各地と朱印船貿易がおこなわれ、日本人が移り住み、日本人町を形成した。しかしその後は鎖国政策によりさびれていった。

3代将軍徳川家光の頃になると幕藩体制が整い、鎖国政策を確立していく。1635年にはすべての日本人の東南アジア方面への海外渡航と帰国を禁止する第三次鎖国令が発令されて朱印船貿易は終末を迎えた。1641年に江戸幕府は「鎖国」を完成させた。しかし長崎・出島をとおしてオランダ、そして中国の朱印船とは交易を続けた。

一方中国東北部では、1616年に女真族が後金を建て、1636年には清と国号を改め、李氏朝鮮を服属、自らを満州族と称した。1644年に明を滅ぼし、第4代皇帝の康熙帝から雍正帝・乾隆帝と最盛期を迎える。

清代には冊封体制の範囲は北アジア・東南アジアなどに大きく広がり、インド以東ではムガル帝国と鎖国体制下の日本のみが冊封体制に入っていなかった。

幕府は鎖国政策の中でも、オランダ・中国、朝鮮、琉球、夷地のみとは貿易を続けた。江戸幕府は4代将軍綱吉の頃から文治政治への転換を図り、1630年に輸入が禁止されたキリスト教関係の書籍を除いて多くの漢籍が輸入された。儒学を研究する木下順庵ら儒学者は厚遇を受け、1690年に林羅山は上野にあった孔子廟を湯島聖堂として新設し直したりして朱子学も発展した。国学者の本居宣長が「からごころ」に代わって「やまとごころ」を主張したりした。

19世紀に入るとロシアの外交官が通商を求めて来たり、英国の軍艦が長崎港に侵入したりするようになり、列強の江戸幕府に対する開国要求が強まっていく。

 

          参考:「列強の日本への侵出状況」8 をご覧ください。      

 

明と同様に海禁政策を実施していた清は1757年、ヨーロッパ商人との貿易港を広州のみに限定して広東十三行(公行)と呼ばれる組合組織を通してのみ交易を許可した。それを不満とした英国は外交交渉を試みるが清は朝貢伝統を固持した。

 

1820年当時の、世界主要国実質GDPのシェア比較がある*(世界総計に占めるシェア、%)。当時の第1位は中国で32.9%、2位インド16.0%、3位仏5.5%、4位露5.4%、5位英国5.2%である。中国は清朝の最盛期(4代康煕帝~6代乾隆帝)は過ぎたとはいえ7代嘉慶帝の時代であり、一方、インドはムガル帝国の末期で既に英国の保護下に入っていた。英国は産業革命により工場制機械工業が出現していた時代である。この後英国は貿易を中・印のビッグ2との三角貿易へと発展させる。因みに、日本は3.0%、米はまだ1.8%であった。なお1913年には米国が1位となる。

 

      *半藤一利、出口治明共著「明治維新とは何だったのか」より。

 

英国の東インド会社がインドでアヘン生産の専売制を開始し、これを中国向けに密輸出しはじめた。清は林則徐を現地に派遣し徹底した取締りをしたため、英国は1840年に阿片戦争を起こした。南京条約によって、香港が英国に割譲され、上海などの開港、公行の廃止、戦争賠償金の支払いが決まった。片務的最恵国待遇が適用され、清は列強と次々に不平等条約を結ぶことになる。それに対して洪秀全らが「滅満興漢」を唱えて太平天国の乱が起きる。1856年に起きたアロー号事件などをきっかけに、英国はベトナムの保護国化を画策していたフランスと共同で清に対してアロー戦争(第二次阿片戦争1856年~1860年)を仕掛けた。清は再び圧倒的な差で敗れ北京条約を批准するに至った。

この頃(1862年)、幕府船「千歳丸」で、各藩の俊秀(薩摩藩の五代友厚や長州藩の高杉晋作ら)が上海へ派遣されており、英仏による租界の実態や太平天国の乱の末期を視察した。これを契機に孔孟・李杜韓白*や諸葛孔明などを通して「聖人の国」として崇拝していた日本人の「支那」観が次第に蔑視化していくことになる。

 

        * 孔孟・李杜韓白:孔子、孟子・李白、杜甫、韓愈、白居易

 

阿片戦争は江戸幕府に大きな衝撃を与えた。1825年に出した異国船打払令を、1842年に薪水給与令に緩和することを決めて鎖国体制が崩壊していく。1853年にペリーの浦賀来航で開国を迫られ、翌年から米国や他の列強と次々に不平等条約を結ぶことになった。こうした井伊直弼の失態を受けて尊王攘夷が薩摩藩・長州藩から沸き起こり、1867年の大政奉還と王政復古の大号令で幕藩体制が終わり、明治維新の時代を迎えた。

日本は廃藩置県などの政策を実施して近代化の道を進んでいく。日本と中国大陸の関係も、西洋帝国主義の潮流の中で構造変化が生じていくことになった。

                                                                                                                      以  上

 

 

. 中国の冊封国としての琉球

中国正史の記述に「琉球」の表記は「隋書・東夷傳・流求國」 (607年の記事と翌年の記事)が初出である。しかし中国では明朝以前までは、台湾以東の島々を、流求(琉球)と総称していたため台湾と混同され、その記事が台湾の記事か琉球についてかは不明である。明との交易が始まった14世紀以降には、琉球王国は自国の国号として「琉球国」を用いていた。「沖縄」は沖縄本島の住民が周辺の島々や宮古、八重山に対する本島を指すことが語源で、沖縄固有の言葉に基づく名称である。明治時代の日本による「琉球処分」を期に沖縄に改称した。琉球県ではなく沖縄県とされたのは、琉球の呼称が中国由来のものだったからである。

 

〇 三山時代(14世紀~1429年)

統一前の沖縄では北山・中山・南山の三国が統治し(三山時代)、三山の中でも特に勢力を誇っていた中山王の察度は、1372年建国間もない明の洪武帝の要請に応じて、はじめて朝貢し冊封国となった。これが、琉球と明との公式な関係のはじまりだといわれている。その後、他の2国も明朝に貢献し、正当性を主張して争った。また、1414年には中山の尚巴志が日本の室町幕府に遣使を行っている。 

冊封制度に組み込まれると、新国王の即位式をとりおこなうために、中国皇帝の命をうけた冊封使が派遣される。 冊封使が琉球をはじめて訪れたのは、1396年の北山王・攀安知の時とも、1404年の中山王・武寧の時ともいわれている。それ以後、琉球王国最後の王・尚泰まで、500年近くの間中国との冊封制度は続いた。

三山時代の三つの勢力を制圧し、琉球全土をはじめて統一したのは、南部から兵をあげた尚巴志である。尚巴志は1406年中山を攻め落し、1422年に北山を、1429年には南山を滅ぼし、ここに琉球は統一された。誕生した琉球王国は1879年の日本政府による琉球処分(沖縄県設置)まで、約450年間続くことになる。

 

〇 琉球王国時代(14291879年)

中国の冊封を受け、特権的に中継貿易をおこなって発展をとげた琉球には日本の存在が大きな位置を占めていた。特産物のとぼしい琉球は、中国へ入貢する品々の多くを日本から調達し、また、中国や東南アジアから買い付けた商品を販売する市場が日本であった。

豊臣秀吉は、朝鮮・明をふくむ東アジアの征服を試み、まず、朝鮮侵略のための軍役令(軍事的負担のこと)を全国に発した。当時独立国であった琉球へも、薩摩藩を通して軍役を要求した。琉球王国にとって宗主国はあくまでも明であり、また、島津氏の命令を拒んでは攻撃を受けるとの危機感から、軍役の半分を負担した。

1602年に仙台藩領内に琉球船が漂着、徳川家康は彼等を琉球へ送り返し、家康への謝恩使の派遣と、日明貿易の仲介、幕府への従属をうながしたが琉球王府は明との関係を第一と考え幕府の要求を一貫して無視した。これを受け、徳川幕府は武力で承諾させることを決断し、薩摩藩に対して琉球への侵攻を許可した。16093月、島津氏は奄美大島をつたい琉球諸島へと攻めこみ、戦闘の経験もなく武器をほとんど持たない琉球の軍勢は、抵抗するすべもなく10日間で敗れ、首里城を明け渡した。翌1610年薩摩藩は家康から琉球の支配権を承認されたほか、奄美群島を割譲させ直轄地とした。しかし琉球は実際には薩摩藩と明・清の冊封国として両方へ対応をしていた。従って、1879年の琉球処分まで琉球は日本と明、日本と清の両国に属していたことになる。

琉球は独立国として、1854年琉米修好条約、1855年琉仏修好条約、1859年琉蘭修好条約の3つの国際条約を締結し、当時の列強から独立国として認識されていた。

1871(明治4)年、日本において全国的に廃藩置県が実施されると、琉球はひとまず鹿児島県の管轄下におかれた。そして1872(明治5)年、明治政府は尚泰王を「琉球藩王」に任命した。明治政府が琉球に対してすぐに廃藩置県を実施せずに、いったん藩にし、さらに尚泰を「藩主」ではなく「藩王」としたのは、琉球や中国の反発を回避するためにも段階的に王国解体をおこなうためであった。

「琉球処分」を決行する前の明治政府にとっては、琉球と清国との関係を断絶し、名実ともに琉球を日本の領土に位置づけることが大きな課題であった。 ちょうどそのころ、宮古島の船が遭難して台湾に漂着、そこで乗組員66人のうちの54人が台湾先住民に殺害されるという事件が起こった。明治政府はこの事件を利用して、清国に対し琉球を日本の領土と認めることを求めた。清国外務当局は、台湾原住民は「化外の民」であり、清国の統治の外にあると述べて責任を回避した。それならと明治政府は、1874(明治7)年、台湾へ3,600名余の兵をさしむけた。これが征台の役である。

この争いは、イギリスの調停で和解が成立し、日中両国間で交わされた条文には「台湾の生蕃が日本国属民を殺害したので、日本国政府はこの罪をとがめてかれらを征伐したが、これは自国の人民を守るための正当な行動であった」とあり、琉球人を「日本国属民」と明記した。これで琉球民は日本人ということになり、琉球の日本帰属が国際的に承認されるかたちとなった。しかしこれには清、琉球ともに不満が残っていた。

1875(明治8)年、明治政府は最終的な「琉球処分」の方針をかためると、琉球藩に対して琉球の王国制度を解体し、日本に属する沖縄県とすることを伝え、同年には清国との冊封・朝貢関係を廃止して中国と断絶する命令をいいわたした。しかし、明治政府は、その後も説得によってでは琉球藩の対応が変わらないので、 1879(明治12)年3月末、日本政府の命を受け、警官と軍隊をひきいて来琉した琉球処分官松田道之は、琉球藩を廃して沖縄県を設置することを王府に通達した。これにより、旧琉球王国の土地・人民およびそれに関するすべての書類は日本政府に引き渡され、そして、藩王の尚泰は華族の身分をあたえられ、東京に居住を命じられた。450年もの長きにわたる琉球王国はここに崩壊した。

沖縄県設置を清国はこれを認めず、また琉球でも清国に救援を求め続ける人たちがいた。 清側は先般の日本の台湾出兵に鑑み、日本は琉球を領有し、再度台湾を占領して、清国が太平洋に出る道を閉鎖しようとの思惑があると危惧していた。そもそも琉球は今日まで中国の冊封国であるとして、米国のグラント前大統領の訪中時に訴えた。清国から琉球問題の調停依頼を受けたグラントは、来日後、伊藤博文ら政府高官と協議し、その交渉の場で日本側が出した案が、日本の中国国内での欧米なみ通商権を認めることと引きかえに、沖縄県内の宮古・八重山を中国へ引きわたす、というものだった。これがいわゆる「分島・増約案」である。 

交渉は難航したが、ロシアとの国境紛争も抱えて早期解決を望んでいた清国側は、やむを得ず日本案を受け入れることに同意した。 1881(明治14)年2月、両国の代表が石垣島でおち合い、正式に宮古・八重山の土地と人民を清国に引きわたすことになったが、いざ調印の段階になると、清国側は国内の混乱や日本の東アジア進出の危機感から調印をためらった。また、琉球の清国への亡命者の再三の請願書も影響して、結局は正式調印されることなくこの条約は棚上げされた。これは引き続き琉球所属問題が宙に浮く事になり、その後の日清戦争にまで持ち越された。1895年に下関で結ばれた日清戦争講和条約交渉時に、従前からの沖縄帰属問題、即ち征台の役の後に結ばれた日清両国互換条款を相互確認し、清は沖縄の日本への帰属を認めた。1872(明治5)年の琉球藩設置にはじまり、1879(明治12)年の廃藩置県による沖縄県設置、そしてこの分島・増約問題にいたる政治過程が「琉球処分」とよばれるものである。

尚、琉球語と日本語は、音韻体系の対応などから同じ系統であることは明らかであり、また、薩摩人が沖縄において、そう苦労せずにコミュニケーションがとれていたので、琉球語は遠く離れた日本語の方言の一種であるといえる。

 

                                                                                                                                   以  上

 

 

4.中国の冊封国としての朝鮮

大陸と地続きの朝鮮半島は絶えず中国王朝の影響を受け、そのほとんどの時代を中国の冊封国としてその位置を保った。

 

〇 衛氏朝鮮時代(紀元前2世紀頃~紀元前108年)

朝鮮で国家として実在が確認されているのは衛氏朝鮮からであり、前漢初期に衛氏朝鮮は冊封されている。その後紀元前108年に前漢の第7代皇帝武帝は朝鮮の直接支配を望み、衛氏朝鮮は滅ぼされ、

 

〇 中国王朝による直接支配の時代(紀元前108年~4世紀中頃まで)

朝鮮半島の大部分は中国王朝(前漢・後漢・三国・晋)の支配下にはいる。

 

〇 三国時代(4世紀中頃~676年)

中国東北地方から出た高句麗が313年中国王朝(晋)の支配拠点であった楽浪郡を滅ぼし、その後中国勢力を朝鮮半島から駆逐した。朝鮮半島は高句麗、百済、新羅の三国時代となった。残る加羅諸国も後に百済、新羅に統合される。

隋を倒した唐は新羅を冊封国とし、唐・新羅連合軍は660年に百済を滅ぼす。663年百済再興のため倭は出兵し白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗北する。668年には新羅は高句麗も滅ぼした。676年に新羅は唐を朝鮮半島から駆逐し、半島を統一した。初めての半島統一政権である。

 

〇 新羅時代(676年~935年)・後三国時代(892936年)

その後、新羅は分裂し、後三国時代(後高句麗(高麗)・後百済、新羅)を迎える。高麗は918年新羅を併合し、933年唐の冊封国となる。高麗は936年に後百済を滅ぼして半島を統一した。

 

〇 高麗時代(9361392年)

高麗では国王が亡くなると、宋から冊封使が来て、後継王の承認が得られるまで「権知国事」というつなぎの称号まであった。琉球など他の冊封国では国王が亡くなれば新たな国王がすぐに継ぎ、中国からの「事後承認」を得る形であったが、朝鮮だけは「事前承認」を得る形を取っており、「中国の許し」を重視していたと思われる。

高麗は1259年、モンゴル軍により属国とされる。1274年に元・高麗連合軍が日本を攻め文永の役、弘安の役の元寇が起こる。高麗は1356年に元から独立するが倭寇に悩まされ、徐々に衰退していく。

 

〇 李朝朝鮮時代(1392年~1910年)

高麗王位を奪い高麗王を称した李成桂は、即位するとすぐに権知高麗国事と称して明に使節を送り、冊封国としてその地位を認められた。明より王朝交代に伴う国号変更の要請をうけた李成桂は、「朝鮮」と「和寧」の二つの候補を準備して洪武帝(明の初代皇帝)に選んでもらった。洪武帝は、前漢の武帝にほろぼされた王国の名前である「朝鮮」を選び、李成桂を権知朝鮮国事に封じた。李氏朝鮮の成立である。

1404年、室町幕府と国交回復、日朝貿易盛んとなる。1419年、対馬の倭寇討伐を目的に対馬を攻撃(応永の外寇、足利義持の時代)。対馬の宗氏の抵抗により10日余りで撤退した。

15921598年にはこの李朝朝鮮に対して豊臣秀吉が軍を侵攻させ「文禄・慶長の役」が起こる。

江戸時代に入り、室町幕府には4回訪日した朝鮮通信使が復活した。徳川家康は関ヶ原の戦い(1600年)に勝つと、対馬の宗氏を介して朝鮮との国交回復を図った。朝鮮王朝は国交回復の条件として、二度と朝鮮を侵さないこと、などを要求し、家康はその要求を入れ、第2代将軍秀忠の時代から再開された。朝鮮通信使に対して幕府の公式文書では、来貢使という用語は使われていないにも関わらず、民間では琉球使節と同様に一方的な従属関係を示す来貢という言葉が広まっていた。実際にも将軍の代替わりや、世継ぎの誕生に際して祝賀使節として派遣されており、また、家康が眠る日光東照宮落成祝賀参拝もしている。一方、幕府からの返礼使派遣は行われず、対馬藩が代行した。以上からも朝鮮通信使は実質的に朝貢使だといえる。通信使は、正使や副使を筆頭にその数は400500人にものぼった。沿道の大名が盛大な饗応を求められ大きな財政負担となっていった。約200年に渡って合計12回来訪し、1811年の対馬への派遣を最後にとだえた。

満州の後金は、1636年、国号を清と改め、朝鮮に冊封体制入りを強要。「崇明反清」の思想が強かった朝鮮は拒んだが、清の太宗(ヌルハチ)は攻撃し、朝鮮は降服して清の冊封国となった。

しかし、19世紀に入ると東アジアは激動の時代となり、阿片戦争などによる宗主国清の国力低下、英、露も朝鮮を狙い始め、明治政府も朝鮮に国交を強く要求する。しかし、朝鮮は清による冊封体制の下にあることを理由に日本との国交を拒否し、日本と朝鮮との間では対立が激しくなっていった。

 1875年には日本軍と朝鮮軍との間で江華島事件がおきる。日本軍が朝鮮付近の海を測量したのに対して朝鮮軍との間に衝突が起きた。この事件の翌年には、日本は朝鮮との間に不平等条約「日朝修好条規」を結ぶことに成功した。

李氏朝鮮の末期には、高宗の妃・閔妃が自身の子(純宗:李氏朝鮮最後の王)を王世子(世継ぎ)とさせるため、側近を清へ派遣して自身の子を嫡子として承認(冊封)してもらっていた記録が残っている。

 

1910年李氏朝鮮は日本に併合された。

 

                                                                                                            以  上